水野忠誠
水野 忠誠(みずの ただのぶ)は、江戸時代末期の大名、老中。駿河国沼津藩第7代藩主。沼津藩水野家14代。
時代 | 江戸時代末期 |
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生誕 | 天保5年7月25日(1834年8月29日) |
死没 | 慶応2年9月14日(1866年10月22日) |
改名 | 惣兵衛(幼名)、忠誠 |
墓所 | 東京都文京区小石川 伝通院 |
官位 | 従四位下出羽守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 駿河沼津藩藩主 |
氏族 | 本多氏→水野氏 |
父母 | 父:本多忠考、養父:水野忠寛 |
兄弟 | 忠誠、稲垣太清、本多忠胤 |
子 | 養子:忠敬 |
生涯
編集天保5年(1834年)7月25日生まれ。幼名は惣兵衛。岡崎藩主本多忠考の四男。沼津藩主水野忠寛の養子となり、忠寛の隠居にともない家督を相続し、老中に進む。幕府は第二次長州征討の総大将に尾張藩主徳川慶勝を任命したが、慶勝が固辞したため、忠誠が総大将に任命された。しかし、征討の準備中であった慶応2年(1866年)9月14日、忠誠は沼津城中で急死した(表向きには10月28日死去とされた)。跡を養子の忠敬が継いだ。
経歴
編集系譜
編集父母
養子