水野保
日本の陸軍軍人、政治家
水野 保(みずの やすし[1]、1884年(明治17年)7月23日 - 1975年(昭和50年)7月24日[2])は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第13代豊橋市長[3]。
水野 保 みずの やすし | |
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生年月日 | 1884年7月23日 |
出生地 | 愛知県渥美郡豊橋町(現・豊橋市) |
没年月日 | 1975年7月24日(91歳没) |
出身校 | 陸軍士官学校 |
前職 | 大同製鋼青年学校長 |
13代 豊橋市長 | |
在任期間 | 1945年5月6日 - 1946年1月29日 |
経歴
編集愛知県渥美郡豊橋町(現豊橋市)で生まれる[4]。1904年(明治37年)10月24日、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日、陸軍歩兵少尉に任官[4][5]。
1913年(大正2年)7月21日、憲兵科へ転科し憲兵中尉となり東京憲兵隊分隊長に就任[4]。以後、青島守備軍憲兵隊分隊長、久留米憲兵隊分隊長、旭川憲兵隊長、姫路憲兵隊長、横浜憲兵隊長を歴任[4][5]。1927年(昭和2年)3月5日、憲兵大佐に昇進し、同年7月26日、大邱憲兵隊長に就任[2][4][5]。 1932年(昭和7年)4月11日、陸軍少将に昇進と同時に待命となり、同年4月26日、 予備役編入となった[2][4][5]。1943年(昭和18年)8月、大同製鋼 (株) 事務嘱託となり1945年(昭和20年)4月まで在勤し、この間、大同製鋼青年学校長、兼大同工業学校校長事務取扱を務めた[4]。
1945年5月6日、豊橋市長に就任[3][6]。同年6月9日、空襲に備えるため反対論を抑えて、市役所を鉄筋コンクリート製の豊橋市公会堂へ移転した[7]。終戦後は戦災の復興に尽力し、1946年(昭和21年)1月29日に市長を退任した[3][6]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[8]。
市長退任後は、会社社長を経て、保育園園長を務めた[7]。1975年7月24日に死去。満91歳没。
栄典
編集脚注
編集- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』215頁。
- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』695頁。
- ^ a b c “歴代市長”. 豊橋市. 2017年4月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g 「水野保愛知県豊橋市長ニ任スルノ件」
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』205、215頁。
- ^ a b 『日本の歴代市長 第2巻』456頁。
- ^ a b 『郷土豊橋を築いた先覚者たち』57頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」85頁。
- ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。
参考文献
編集- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 郷土豊橋を築いた先覚者たち編集委員会編『郷土豊橋を築いた先覚者たち』、豊橋市教育委員会、1986年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 内閣「水野保愛知県豊橋市長ニ任スルノ件」昭和20年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-022-00・任B03982100
公職 | ||
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先代 近藤寿市郎 |
豊橋市長 第13代:1945年 - 1946年 |
次代 横田忍 |