水の都
(水都から転送)
水の都(みずのみやこ)は、運河や河川、水路、堀などが、都市景観の形成や交通・交易に大きな役割を果たしている都市に対して使用される愛称。水都(すいと)とも呼ばれる。
世界的には、イタリアのヴェネツィアを筆頭に、オランダのアムステルダム、日本の大阪、ロシアのサンクトペテルブルク、中国の蘇州などを指す。
概要
編集元々は瀬戸内海航路の起点で、海に囲まれていた難波宮(現在の大阪)を指す語で、低湿地で多様性のある水郷とは異なり、道路や水路・運河が交錯する地割が、街の風景となる水辺都市のことを指す。
主な水の都
編集日本国内
編集北海道
編集東北地方
編集関東地方
編集- 水戸市 - 北部を流れる那珂川と南部に広がる千波湖の間に水戸駅を中心とする繁華街が形成されており、かつてはそれらを天然の堀とした水戸城が存在した城下町であった。また水戸という地名においても、那珂川の舟運の河港として盛え、水運の戸口とされていた事に由来している。
- 東京23区 - 利根川・荒川・多摩川の下流域であり湿地帯であったが、江戸幕府開府以降は大規模な治水工事により多数の堀や川が張り巡らされていた。しかし、関東大震災や東京大空襲後の復興や高度経済成長期の経済発展を経て、その多くは高速道路で覆われたり埋め立てや暗渠化がされるなどして、現在では人間の生活とは隔絶してしまったとされる[1]。
中部地方
編集- 津島市 - かつては木曽川および派川の末端部に位置し、現在の市域内を流れた天王川や佐屋川を通じた河川交通の拠点として整備され、尾張国の商都として栄えていた。天王川・佐屋川は江戸時代から明治時代にかけて廃川となったが、天王川の名残の丸池周辺は天王川公園として整備され、日本三大川祭の1つ・尾張津島天王祭が開催される。
- 大垣市 - 揖斐川、長良川を始め市内に15本の一級河川が流れており水都と呼ばれている。市内には、初めて人工の湧水井戸に成功した掘抜井戸発祥の地があるほか、多くの井戸が存在し、地下水が豊富である。また、岐阜県西濃地方、滋賀県のみに生息が確認されているハリヨが市内に生息している。
- 郡上市 - 長良川の河川を利用して旧郡上郡八幡町(通称:郡上八幡)の町全体を水路が張り巡らされており、防火・飲用・洗濯などの生活用水として利用されている。
近畿地方
編集- 大阪市 - 古代に現在の上町台地に位置する難波津に難波宮の都がおかれ、ここを拠点に瀬戸内海各地や九州、さらには大陸との交易・交流によって、新しい技術や文化が大阪に持ち込まれたことから、水の都と呼ばれる。江戸時代以降、多くの水路が開削され、そこに架けられた橋の多さから「浪華八百八橋」と称された。 また大阪の旧国名「摂津」「河内」「和泉(いずみ)」(摂河泉)は三つとも水に関係している。 大阪#近世の大阪の移り変わりも参照、水都大阪2009などを開催。
- 堺市 - 大阪湾に面した港湾都市。かつては「東洋のヴェネツィア」とも称された。
中国地方
編集四国地方
編集九州地方
編集- 佐賀市 - 干拓地である佐賀平野には、淡水の確保、舟運、雨水の貯留排水、防衛など複合的な機能を持ったクリークと呼ばれる水路網が発達し、現存しているクリークの総延長は2,000kmにも及ぶ。
海外
編集ヨーロッパ
編集- ヴェネツィア(イタリア)- アドリア海のラグーンの上に築かれた都市で「アドリア海の女王」の別名をもつ、世界を代表する、最も有名な水の都である。
- ドゥブロヴニク(クロアチア)- アドリア海の都市で 「アドリア海の真珠」の別名をもつ。
- アムステルダム(オランダ) - アムステル川の河口に築かれたダムから発展した。
- ロッテルダム(オランダ) - マース川河口からの水路を利用した貿易で栄えた。街の愛称の一つにWaterstad(水の都市)がある。
- ブルッヘ(ベルギー) - 運河を中心とした町並みが世界遺産に登録されている。
- ストラスブール(フランス) - ライン川沿いの貿易港はフランス最大の河川港となっており、街も港を中心に構成されている。
- サンクトペテルブルク(ロシア) - 運河が縦横に走り、「北のヴェネツィア」とも称される。
- ストックホルム(スウェーデン) - 島の上に築かれた都市で、「北欧のヴェネツィア」とも称される。
アジア
編集脚注
編集- ^ “第一部 基調講演 「普段見ることのない角度(川)から見た都市・東京」”. 東京都建設局. p. 4. 2024年1月21日閲覧。 “東京という町はかつては水運に恵まれて、文字通り「水の都」だった。 江戸幕府は海と低湿地帯の埋め立てに力を入れ、たくさんの運河がその時同時に誕生した。その頃の川や運河は排水路・用水路・舟運などに盛んに利用されており、まさに都市の「大動脈」だったはずだ。 ところが現在、東京を見て水の都だと思う人はまずいないだろう。それは単に、明治以降の近代化に伴って、川はその動脈としての役目を陸運=道路・鉄路に取って代わられてしまったことだけに起因する印象ではない。工業化や人口増に伴う排水汚染の深刻化、野放図なコンクリートの護岸工事、それらが生み出した悪臭…人々は急速に川を遠ざけるようになり、折からの用地不足も後押しする形で、東京の住人たちは次々と川に蓋をしてしまった。高速道路で上空を覆ってしまった川もあれば、 暗渠で完全に封印されてしまった川もある。いずれにせよ、現代東京における川はまったく身近な存在とは言えない。いまでもすぐそばに流れているにもかかわらず、誰もその存在を意識しない。”