水口清郁
水口 清郁(みなくち きよくに)は、江戸時代後期の地下官人[1]。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 安永6年12月18日(1778年1月16日) |
死没 | 天保12年4月14日(1841年6月3日) |
官位 | 従五位下、左府生、東宮帯刀、左将曹、院近衛代、左近将監 |
主君 | 後桃園天皇→光格天皇→仁孝天皇 |
氏族 | 身人部氏流水口氏 |
父母 |
父:大石信敬 義父:水口武清 |
兄弟 | 清郁、大石信辰、大石信守 |
子 | 清生、田中盛纓 |
概要
編集父の院蔵人所衆・大石信敬は雅楽助・身人部茂清の子で、藤原信任・右将監藤原信友女夫妻の養子となって大石氏を継承している。
文化元年(1804年)5月3日には28歳で従六位下・左府生に叙任された。同5年4月1日には東宮帯刀に補任され、同9年(1812年)3月14日には従六位上・左将曹に叙任された。
文政2年(1820年)12月18日には正六位下に叙され、文政7年(1824年)7月16日には院近衛代に任じられ、翌年の7月19日には左近将監に転じ、7月20日には再び院近衛代へと還補している。文政9年(1826年)12月19日には正六位上に、天保5年(1834年)4月16日には従五位下に叙され、天保12年(1841年)4月14日に64歳で死去した[2]。