毛馬発電所 (大同電力)
毛馬発電所(けまはつでんしょ)は、かつて大阪市都島区毛馬町1丁目に存在した石炭火力発電所である。1922年(大正10年)から1944年(昭和19年)にかけて運転された。発電所出力は1万2500キロワット。
毛馬発電所 | |
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発電所全景 | |
国 | 日本 |
所在地 | 大阪市都島区毛馬町1丁目 |
座標 | 北緯34度43分7.5秒 東経135度31分12秒 / 北緯34.718750度 東経135.52000度座標: 北緯34度43分7.5秒 東経135度31分12秒 / 北緯34.718750度 東経135.52000度 |
現況 | 運転終了 |
運転開始 | 1922年(大正11年)10月 |
運転終了 | 1944年(昭和19年)1月 |
事業主体 | 日本発送電(株) |
開発者 | 大同電力(株) |
発電量 | |
最大出力 | 12,500 kW |
木曽川開発を手掛けた大同電力により、大阪方面における渇水期の補給用火力発電所として建設。1939年(昭和14年)に日本発送電へ出資されるも、太平洋戦争中に設備供出のため廃止された。
歴史
編集1919年(大正8年)11月、木曽川開発を展開中の福澤桃介率いる木曽電気興業と、関西の電鉄会社京阪電気鉄道により、関西地方への電力供給を目指して大阪送電(後の大同電力)が設立された[1]。同社は木曽川筋から京都・大阪方面へ至る送電線を建設するとともに、渇水期の水力発電量の減退を補充する出力1万キロワットの火力発電所を大阪府内に新設する計画を立てた[1]。
大阪の火力発電所は石炭輸送の都合上大阪湾に面して建設されるのが一般的であるが[2]、需要家(京阪電気鉄道と大阪電灯)への供給や古川橋(現・門真市)に設置する大阪変電所との連絡の都合上、大阪湾付近ではなく旧淀川左岸[3]、大阪市友渕町315番地1(当時)が用地に選ばれた[2]。こうして建設されたのが毛馬発電所で、1921年(大正10年)10月に着工[2]。木曽電気興業の母体名古屋電灯(後の東邦電力)が名古屋市内での渇水補給用発電所建設のために発注していた設備を転用し急いで工事を進め、翌1922年(大正11年)10月竣工、ただちに運転を開始した[2]。発電所出力は1万2500キロワットとされた[2]。
以後、20年近くにわたって大同電力によって運転された。逓信省電気局の資料によると、1925年度の稼働実績は計2282時間・総発電量2100万1800キロワット時[4]、1936年度の稼働実績は計1123時間・総発電量1098万9480キロワット時であった[5]。
1938年(昭和13年)8月、電力国家管理実施に伴い大同電力は日本発送電への設備出資命令を受命する。対象設備には毛馬発電所も含まれており、翌1939年(昭和14年)4月1日付の日本発送電設立とともに同社へ引き継がれた[6]。出資から5年後の1944年(昭和19年)1月、比較的遊休な設備であるとして太平洋戦争下の設備供出のため廃止となり、タービン発電機1基・ボイラー6缶はすべて中国北部へ移設された[7]。従って戦後発足の関西電力には引き継がれていない。
設備構成
編集発電所設備の概要は以下の通り[3]。
脚注
編集- ^ a b 大同電力社史編纂事務所(編)『大同電力株式会社沿革史』、大同電力社史編纂事務所、1941年、35-38頁
- ^ a b c d e 『大同電力株式会社沿革史』、134-135頁
- ^ a b 日本動力協会(編)『日本の発電所』中部日本篇、工業調査協会、1937年、394-396頁。NDLJP:1257061/66
- ^ 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』第18回、電気協会、1927年、664頁。NDLJP:1076898/359
- ^ 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』第29回、電気協会、1938年、495頁。NDLJP:1073650/294
- ^ 『大同電力株式会社沿革史』、410-413・452頁
- ^ 『日本発送電技術史』、日本発送電株式会社解散記念事業委員会、1954年、194-196・214-215頁
- ^ 『全国大発電所一覧』、オーム社、1933年、47頁。NDLJP:1210456/68