毛利斉広
毛利 斉広(もうり なりとう)は、江戸時代後期の大名。毛利氏26代当主。長州藩12代藩主。10代藩主・毛利斉熙の次男で、11代藩主・毛利斉元の養嗣子[1]。長州藩主としては在職期間が最短の藩主である。
毛利斉広像(毛利報公会蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化11年5月16日[1](1814年7月3日) |
死没 | 天保7年12月29日(1837年2月4日)[1] |
改名 | 保三郎[1](幼名)、崇広[1]、斉広 |
戒名 | 崇文院殿故大官令中大夫羽林次将長防国主天常瑞誠大居士[1] |
墓所 |
東京都港区愛宕の青松寺 山口県萩市椿の大照院[1] |
官位 | 従四位下、侍従・修理大夫[1]、左近衛権少将[1]、大膳大夫[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 長州藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 |
毛利斉熙[1]、志津[1] 毛利斉元 |
兄弟 |
斉広、信順、由美子、万寿子、八重姫、 美知子 |
妻 |
正室:和姫(徳川家斉の二十女)[1] 側室:勇信院[2] |
子 |
都美子[2] 養子:敬親 |
経歴
編集文化11年(1814年)5月16日、萩城内において、斉熙と側室の池上氏(志津・花ノ井)との間に生まれる[1]。幼名として保三郎、のちに初名の
文政13年(1830年)3月、実父・斉熙や養父・斉元と同様、11代将軍・徳川家斉より偏諱を授与され
天保7年(1836年)9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に跡を継ぐが、20日足らず後の29日に桜田の藩邸において、23歳で死去した[1]。なお、実父の斉熙も同年5月14日に死去していた。
3歳年下の異母弟の毛利信順がいたが、斉元が生前に自身の長男・猶之進を斉広の跡継ぎに立て、斉広の娘都美子(当時数え5歳)と娶わせる意向を残しており、これが江戸加判役・毛利房謙より公表されるに及び、老臣の衆議でこれに異議がなかったため、猶之進(教明、のちの慶親、敬親)が家督を相続した。斉広は生前に仮養子を立てておらず、手続きは斉広の存命を装っての末期養子となり、3月15日に斉広の死が公表された[4]。
文化人としては有能で、林述斎に師事して「与人論」や「世子告文」など多くの書物を残している。
系譜
編集補足
編集脚注
編集参考文献
編集- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 萩市史編纂委員会編『萩市史』 第1巻、萩市、1983年6月。 NCID BN01890860。全国書誌番号:83049750。 国立国会図書館デジタルコレクション
- 大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年