比治山神社
広島県広島市南区にある神社
比治山神社[1](ひじやまじんじゃ)は、広島県広島市南区にある神社である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
比治山神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 広島県広島市南区比治山町5-10 |
位置 | 北緯34度23分18.3秒 東経132度28分23.5秒 / 北緯34.388417度 東経132.473194度座標: 北緯34度23分18.3秒 東経132度28分23.5秒 / 北緯34.388417度 東経132.473194度 |
主祭神 |
大国主神[1] 少名毘古神 市寸島比売神 須佐之男神 車折大明神 |
社格等 |
旧村社 別表神社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 三間社流造 |
例祭 | 10月の第4日曜日 |
地図 |
祭神
編集大国主神、少名毘古神、市寸島比売神、須佐之男神、車折大明神を祀る。
摂末社
編集歴史
編集元々は比治山の南の「黄幡谷」と呼ばれる谷に鎮座し、黄幡大明神(おおばんだいみょうじん)・黄幡谷と称していたが、正保3年(1646年)3月に真言宗勝楽寺の境内に遷座し、その鎮守社とされた。寛文年間(1661年 - 1673年)に現在地に遷座し、近隣の村の産土神として信仰された。
1868年(明治元年)の神仏分離の際に、社名を改めて「比治山神社」と称し、勝楽寺は廃寺となり、同寺住職智等は還俗して「志熊新」と改名し当社の社掌となる[1]。1872年(明治5年)、村社に列し、1907年(明治40年)、神饌幣帛料供進社に指定された[1]。
1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾の投下により社殿を焼失し、1954年(昭和29年)に再建された。1959年(昭和34年)、神社本庁の別表神社に加列された。
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別社
神職
編集- 宮司
比治山神社宮司大巳(おおみ)家は初め「大呑」姓で、安芸郡府中総社の社家の出である[2]。大呑家は史書『陰徳太平記』にもでてくる豪傑の出た家柄で、戦国時代、銀山城主武田家の逆鱗にふれ、家伝の古文書の多くを失った[2]。1代目の大呑親詮は1555年に亡くなる[3]。
- 社掌
定例行事
編集脚注
編集- ^ a b c d 『広島市史 社寺誌』38 - 42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年4月6日閲覧。
- ^ a b 『広島史話伝説 第3輯(広島城下・周辺の巻、(続)己斐の巻)』103頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月25日閲覧。
- ^ 『安芸府中町史 第3巻(年表編)』大呑略系譜(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月26日閲覧。
- ^ 『広島県紳士名鑑』190頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年7月24日閲覧。
参考文献
編集- 『広島県紳士名鑑』国民教育普及社、1917年。
- 広島市編『広島市史 社寺誌』広島市、1922 - 1925年。
- 都築要『広島史話伝説 第3輯(広島城下・周辺の巻、(続)己斐の巻)』郷土史研究会、1969年。
- 府中町史編さん専門委員会編『安芸府中町史 第3巻(年表編)』府中町、1975年。