武藤景頼
武藤 景頼(むとう かげより)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将。伯父・少弐資能の家系が九州大宰府を拠点に活動したのに対し、景頼の家系は幕臣として栄えた。
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 建仁4年/元久元年(1204年) |
死没 | 文永4年8月4日(1267年8月24日)[1] |
改名 | 景頼→心蓮(法号) |
官位 | 左衛門尉、太宰権少弐 |
幕府 | 鎌倉幕府 評定衆 |
主君 | 藤原頼経→頼嗣→宗尊親王 |
氏族 | 武藤氏 |
父母 | 父:武藤頼茂 |
子 | 景泰[2]、資平[2]、頼泰[3] |
宝治元年(1247年)の宝治合戦には北条氏方として参戦、宝治3年/建長元年(1249年)に引付衆に任命される。建長8年/康元元年(1256年)、太宰権少弐に任ぜられ、正嘉2年(1258年)に評定衆に任命され、幕政の中枢で活躍した。
寛元4年(1246年)、4代将軍・藤原頼経が宮騒動のために更迭された際、その供奉人を務め、京から宗尊親王を招請する際も二階堂行方と共に、様々な取次ぎを行って周旋に尽力、北条時宗の元服にも北条一門や安達泰盛らと共に参列するなど、幕府内における地位は高かったようだ。