武田信武

南北朝時代の武将。安芸、甲斐守護。甲斐武田氏7代。陸奥守、伊豆守、甲斐守、修理亮、左馬頭、兵庫頭、従四位下。室町幕府 引付衆、九州探題。勅撰集『新千載和歌集』『新拾遺和歌集

武田 信武(たけだ のぶたけ)は、南北朝時代武将武田信政の子信時にはじまる信時流武田氏の生まれ。甲斐源氏第10代当主。武田氏の7代当主。『甲斐国志』によれば、「生山系図」を引用し室を足利尊氏の姪とする。室町幕府引付衆にも任じられた。

 
武田信武
時代 鎌倉時代 - 室町時代前期
生誕 正応5年5月5日1292年5月22日
嘉元元年(1303年)説有り
死没 正平14年/延文4年7月13日1359年8月7日
※正平17年/康安2年1月6日1362年2月1日)説有り[1]
別名 彦六(通称)、伊豆三郎[2]
官位 陸奥守伊豆守甲斐守修理亮左馬頭
幕府 鎌倉幕府室町幕府 引付衆九州探題
主君 足利尊氏
氏族 武田氏
父母 父:武田信宗
母:結城広綱
二階堂行藤娘、足利高義
信成氏信穴山義武大井信明
山県公信
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生涯

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父・信宗の後を受けて当主となる。安芸国守護であったが、自身が安芸に直接赴いたかどうかは不明である。

元弘2年/正慶元年(1332年)9月、元弘の乱に際して鎌倉幕府方として出陣[2]。そのため、鎌倉幕府滅亡後に発足した後醍醐天皇の建武政権においては討幕軍に従い戦った甲斐国守護・石和政義の後塵を拝していた。建武政権より離反した足利尊氏の軍勢催促に応じ、建武2年に挙兵し、熊谷蓮覚の本拠矢野城広島市)を攻略している。翌年には上洛し、足利勢と合流し主に畿内を中心として宮方と戦い、また安芸国内の沈静化にも務めている。

鎌倉時代後期には、安芸守護として本拠を移した信時流武田氏に代わって甲斐守護は北条得宗家と結びついた庶流石和流武田氏が継承しており、政義は建武政権に加わり甲斐守護を安堵されたが1343年に戦死している。政義の死後には甲斐への介入を強め、貞和2年(1346年)に一蓮寺へ行った寄進をはじめ甲斐国との関係を示す史料が見られる。将軍尊氏と実弟直義の対立から発生した観応の擾乱の最中には甲斐守護への補任を示す史料が見られ、直義追討のため甲斐へ入国したと考えられている。

尊氏の信頼が篤く、尊氏が天竜寺を造営しようとした際には、同族の信濃守護小笠原氏らと造営に協力している。没年は甲府市法泉寺の位牌によれば延文4年(1359年)であるが、一蓮寺過去帳や傑翁是英語録によれば康安2年(1362年)であるという。跡を子の信成が継承し、安芸守護職は次男の氏信が継承した。

和歌に優れた教養人でもあり、『新千載和歌集』には信武の作品が修められている。

系譜

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信武の子の代で武田宗家は三つに分流し信成は甲斐武田氏を、氏信は安芸武田氏を、公信は京都武田氏を起こした。

脚注

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  1. ^ 「甲斐武田氏綱要」(『系図綜覧』所収)
  2. ^ a b 『太平記』巻六「関東大勢上洛事」

参考文献

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  • 渡邉正男「南北朝の内乱と武田守護家の確立」『山梨県史通史編2中世』
  • 黒田基樹「鎌倉期の武田氏」『地方史研究』
  • 柴辻俊六「武田氏の系譜」『信玄の戦略』