武田 信友(たけだ のぶとも)は、戦国時代武将武田信玄の異母弟にあたる。

 
武田信友
時代 戦国時代
生誕 天文8年(1539年)?/天文11年(1542年)?
死没 天正10年(1582年
別名 六郎(通称)、信基?
官位 左京亮上野
主君 武田信玄勝頼
氏族 武田氏
父母 父:武田信虎、母:内藤氏
兄弟 竹松信玄犬千代信繁信基(信友?)信廉信顕一条信龍宗智松尾信是
河窪信実信友勝虎定恵院
南松院殿穴山信友正室)、禰々
花光院(浦野氏室)、
亀御料人大井信為正室)、下条信氏正室、禰津神平元直の長男)室、葛山氏室、
菊御料人菊亭晴季室)
正室:瀬名貞綱
信堯三浦員久
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生涯

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甲陽軍鑑』によれば、天文7年(1538年)に武田信虎が嫡男の晴信により甲斐から追放され駿河今川氏に預けられた翌年の天文8年(1539年)に側室の内藤氏との間に生まれたとされ、『松平記』も駿河追放後に生まれた子としている。
しかしながら、実際には信虎追放は天文10年(1541年)であるため、駿河で生まれたとする所伝が事実であるならば少なくとも生年は天文10年以降と考えられており、平山優は信虎追放の翌年であるとするならば天文11年(1542年)で、同23年(1554年)に13歳で嫡男・信堯を儲けたのではないかとしている[1]

系図類では信繁信廉の間に武田信基が見え、通称が似通っていることから信基を信友と同一視して生年を享禄年間と推定する見解も出されている[2]が、平山優は駿河追放後の信虎が信友を晴信に代わる後継者と位置付けて実際に家督を譲っており(「駿河武田氏」)、信基=信友とすれば、信虎の駿河追放の際に信基だけを同行して弟である信廉以下の男子を駿河に連れていかなかった理由が説明できないとして、信友は駿河追放後に生まれた信虎の末子と位置付けるべきとしている[1]

武田氏と今川氏は信虎時代より縁戚関係にあったが、晴信時代には甲相駿三国同盟により同盟関係はより強化されていた。信友は甲斐へ行くこともなく、信虎の亡命先の駿河でそのまま今川家臣団に加わり、今川義元氏真に仕える。桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後に武田氏の外交方針が南進路線に転じると、葛山氏元瀬名信輝とともに、兄の信玄に今川氏の内情を伝える役目を担っていたとされる。やがて今川氏真によって信虎が駿河から追放されると、信友は兄を頼って甲斐に赴き、永禄11年(1568年)12月の駿河侵攻にも呼応した[3][注釈 1]元亀元年(1570年)には上野介と称する。

武田氏の駿河支配では駿府城支配を任され、信玄の死後も武田勝頼に仕えた。 天正3年(1575年)の長篠の戦いでは敵の旗を見るや穴山信君や子の信堯と共に勝頼よりも先に撤退したため、臆病第一と罵られたとされる(『松平記』・『甲乱記』)が、同年6月1日に出された勝頼書状によれば信友は当時三浦員久、小原宮内丞と共に駿河田中城の在番にあたっていたことが確認出来る。

その後は隠居したが、天正10年(1582年)2月から始まった織田信長による甲州征伐の際に一族と共に滅ぼされた(『甲乱記』)。『信長公記』を典拠として信長の嫡男・織田信忠が甲府を占領した際に捕縛され、3月7日に相川河原で処刑されたとみる見解もある[3]が、同史料の天正10年3月7日条に見える「武田上総介」は武田信由を指すものとみられている[5]

なお、阿波武田氏の一族である武田信顕は武田上野介を称し、信虎の追放後の子であるという伝承があることから、この信顕こそが信友であるという指摘もある。

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、平山優は信虎は信友に家督を譲った後に自らの意思で京都に移住したもので、その後も今川氏のために活動を続けており、信虎父子が反今川氏的な活動を行った事実はないとしている[4]

出典

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  1. ^ a b 平山 2019, pp. 28–29.
  2. ^ 柴辻 2007.
  3. ^ a b 笹本 2005, p. 117.
  4. ^ 平山 2019, pp. 377–379.
  5. ^ 木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」木下 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年)

参考文献

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  • 高柳光寿『長篠の戦』春秋社、1978年。ISBN 978-4393482162 
  • 笹本正治『武田信玄』ミネルヴァ書房、2005年。ISBN 978-4623045006 
  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年。ISBN 978-4404034236 
  • 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版〈中世武士選書・42〉、2019年。ISBN 978-4-86403-335-0