武井直也
日本の彫刻家 (1893-1940)
武井 直也(たけい なおや、1893年(明治26年)6月16日 – 1940年(昭和15年)2月5日)は、日本の彫刻家[1]。
武井 直也 | |
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武井 直也 | |
武井の肖像写真 | |
生誕 |
武井 直也 1893年6月16日 長野県諏訪郡平野村 |
死没 |
1940年2月5日(46歳没) 東京府東京市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京美術学校彫刻科卒業 |
著名な実績 | 彫刻 |
代表作 |
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受賞 | 日本美術院展入選(1918年・1919年・1920年) |
民族 | 大和民族 |
影響を受けた 芸術家 |
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概要
編集長野県出身の彫刻家である。戸張孤雁、アントワーヌ・ブールデルに師事した。日本美術院の同人であったが、脱退して日本彫刻家協会を結成した。代表作となった『髪』は東京国立近代美術館に収蔵されている。そのほか『浴後』と『裸婦』が東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。
来歴
編集長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)に生まれ、同村の篆刻家の八幡郊処の影響で彫刻家を志した[2]。上京後、戸張孤雁に師事し、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻本科塑像部を卒業。日本美術院展に3年連続入選した後、1924年フランスへ留学、同郷の清水多嘉示らとパリに住む。アントワーヌ・ブールデル門下に入り、東洋人初の塾長となった。1927年帰朝、日本彫刻界にフランス近代彫刻の新しい風を吹き込んだ。昭和の初めころより東京下落合にアトリエをもって製作に没頭し、1936年には日本彫刻家協会を結成してそのリーダーとなった。1940年腸チフスのため東大病院で急逝した。47歳であった。墓所は岡谷市堂庵墓地。
作風
編集作風は、ブールデルに学んだ簡明で、堅固な構成から、帰国ののち、院展時代には次第に浪漫的傾向を表し、自由でおおらかな独自の作風へと発展をしていった。大理石彫刻が多い。
家族・親族
編集長男は彫刻家の武井斌(たけし)。
略歴
編集- 1893年(明治26年) - 長野県諏訪郡平野村(現岡谷市)西堀に生まれる
- 1906年(明治39年) - 小井川尋常高等小学校卒業
- 1914年(大正3年) - 東京聖学院中学5年次に編入
- 1915年(大正4年) - 東京美術学校彫刻本科彫塑部入学
- 1918年(大正7年) - 日本美術院展へ「折井先生胸像」を出品し初入選を果たす
- 1920年(大正9年) - 東京美術学校卒業
- 1924年(大正13年) - フランスへ留学、清水多嘉示らとパリに住む
- 1927年(昭和2年) - 帰国、フランス留学中の作品を発表
- 1932年(昭和7年) - 日本美術院同人となる
- 1936年(昭和11年) - 日本彫刻家協会を結成
- 1940年(昭和15年) - 腸チフスのため東大病院で急逝
代表作品
編集参考文献
編集- 滝澤忠義「信州とフランス」1996年 桐原書店