正田誠一
正田 誠一(しょうだ せいいち、1915年〈大正4年〉5月10日[1] - 1974年〈昭和49年〉10月11日)は、日本の経済学者。広島県安芸郡江田島村(後の江田島市)出身[2]。原爆歌人として知られる正田篠枝の実弟。
広島県立第一中学校(後の広島県立広島国泰寺高等学校)、旧制広島高等学校を経て、九州大学法文学部経済学科を卒業。広島高時代は同校始まって以来の秀才との評判を得ていた[3]。その後、日本鉄鋼連合会調査部、宇品内燃機有限会社、不二越鋼材株式会社の勤務を経て[2]、1946年(昭和21年)に九州大学の講師に就任し、後に助教授、さらに教授に昇任した[2]。
教授職においては工業政策や社会政策講座を担当する傍ら、九州の石炭産業の分析・研究に関する論文を多く執筆した[4]。戦後に発表した論文がアメリカ陸軍防諜部隊の忌諱に触れ、厳しい追及を受けたことが何度かある。その経緯から、姉の篠枝が広島原爆をテーマとした歌集の発行を志した際には、検閲による姉の処罰を危惧し、発行を思い留まるよう忠告したというエピソードを持つ[3]。
1964年(昭和39年)、文部省在外研究員としてイギリスへ出張。翌1965年(昭和40年)に帰国後、九州大学経済学部長、同労働研究所長を歴任[2][4]。1972年(昭和47年)、日本学術会議の会員となり、沖縄問題特別委員長を務めた[5]。
脚注
編集参考文献
編集- 正田誠一『九州石炭産業史論』九州大学出版会、1987年。ISBN 978-4-87378-169-3。
- 水田九八二郎『目をあけば修羅 被爆歌人正田篠枝の生涯』未来社、1983年。ISBN 978-4-624-41040-7。
- 『日本人名大辞典』上田正昭他監修、講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 。