橘 俊済(たちばな の としなり、生没年不詳)は、平安時代中期の貴族。名は俊斉・俊古とも記される。
右京大夫・橘海雄の曾孫、阿波守・橘高臣の子。官位は従四位上・大和守。
一条朝中期に越中守・大和守と受領を歴任し、位階は従四位上に至る。また、右大臣・藤原顕光の家司も務めた[1]。
長保3年(1001年)に申文三通を奉っている[2]。
注記のないものは『系図纂要』による。