橋本弘文
橋本 弘文(はしもと ひろふみ)こと 姜 弘文(きょう ひろふみ、1947年1月8日[1] - )は、在日韓国・朝鮮人のヤクザ。指定暴力団・六代目山口組統括委員長[2]。大阪府東大阪市に本部を置く暴力団・極心連合会の会長[3]。2019年11月に引退した[4]。
はしもと ひろふみ 橋本 弘文 | |
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生誕 | 1947年1月8日(77歳) |
住居 | 大阪府東大阪市 |
国籍 | 韓国 |
職業 | 暴力団員 |
活動期間 | 1963年 - 2019年 |
団体 | 山口組 |
肩書き |
六代目山口組統括委員長 同・筆頭若頭補佐 極心連合会会長 |
姜弘文 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 강홍문 |
漢字: | 姜 弘文 |
発音: | カン・ホンムン |
日本語読み: | きょう ひろふみ |
2000年式: MR式: |
Gang Hongmun Kang Hongmun |
来歴
編集渡世入り〜山健組時代
編集1947年(昭和22年)に生まれる。16歳で大阪の独立組織である南一家吉田組に加入し、ヤクザとなる。しかし、吉田組は程なくして解散、橋本は自ら橋本組を結成する。
1976年(昭和51年)に29歳で三代目山口組傘下山健組組長である山本健一から盃を受け、山健組の直参となる。1983年(昭和58年)には、橋本組を極心連合会に改称し、直後に勃発した山一抗争では武闘派として一和会系組織を攻撃するなど次第に頭角を現した。1987年(昭和62年)には二代目山健組若頭代行に就任する。
1989年(平成元年)に五代目山口組が発足すると、桑田兼吉が山健組の三代目組長となり、橋本は三代目山健組若頭に就任した。1997年(平成9年)12月、桑田が銃刀法違反(共同所持)容疑で逮捕・起訴され、長期に渡り勾留される。2003年(平成15年)5月、最高裁が桑田の上告を棄却し懲役7年の実刑判決が確定すると、橋本は組長代行に就任し、7,000人の人員を擁するといわれた山健組を切り盛りした。
山口組直参時代
編集2005年(平成17年)4月、内部昇格で五代目山口組の直参となり[2]、6月には若頭補佐に抜擢された。同年8月に山口組が六代目体制に移行した後も、橋本は継続して若頭補佐を務め、芳菱会会長の瀧澤孝が顧問に退いた2008年(平成20年)11月以降は筆頭若頭補佐として山口組の中枢を担った。
2012年(平成24年)4月、新設された統括委員長職に就任した。これは当時、恐喝罪に問われていた若頭・髙山清司の収監を見越したもので、実質的な若頭代行として髙山に代わり山口組の実務面の最高責任者となった。
事件
編集周辺者
編集金融制裁指定
編集2013年12月19日、アメリカ合衆国財務省は、橋本弘文ことKANG,Hong-Munを国外の著しい犯罪組織とその支持者であるとして、国際緊急経済権限法・大統領令13581号に基づき、アメリカ合衆国司法権の及ぶ範囲の資産凍結、アメリカ人との取引を禁止する制裁対象とした[8]。
脚注
編集出典
編集- ^ 『実話時報 2012年3月号』“六代目山口組<大検証>「武」と「智」 六代目山口組「直系組長85人」 橋本弘文” (特別付録) 2012年2月14日 竹書房
- ^ a b 『六代目山口組 完全データBOOK』 (p.5) 2008年 メディアックス ISBN 978-4-86201-328-6
- ^ 『暴力団』 “芸能人や政治家となぜ付き合うのか?” (p.138) 溝口敦 2011年 新潮新書 ISBN 978-4-10-610434-3
- ^ “六代目山口組を早くも震撼させる「高山若頭恐怖政治」の復活(溝口 敦) @gendai_biz”. 現代ビジネス. 2020年7月4日閲覧。
- ^ 『[1]』 2012年11月30日 朝日新聞[リンク切れ]
- ^ 『山口組ナンバー3を逮捕 別人名義で自分の車を登録容疑』 2016年2月20日 朝日新聞
- ^ 『極心連合会本部長ら4人逮捕 山口組ナンバー3と共謀し車の虚偽登録容疑 大阪府警』 2016年2月22日 産経ニュース
- ^ 『Treasury Sanctions Members of Japanese Criminal Organization』 2013年12月19日 アメリカ合衆国財務省(英語)