樺山資英
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
樺山 資英(かばやま すけひで、明治元年11月19日(1869年1月1日) - 昭和16年(1941年)3月19日[1])は、日本の官僚、政治家。貴族院議員。
経歴
編集- 明治元年(1868年) 薩摩国に樺山資雄の次男として生まれる
- 明治21年(1888年) 渡米。コロンビア大学入学。
- 明治26年(1893年) イェール大学院を修了(法学博士)
- 明治28年(1895年) 台湾総督府参事官
- 明治29年(1896年) 高島鞆之助拓殖務大臣秘書官兼官房秘書課長
- 明治30年(1897年) 松方正義内閣総理大臣秘書官
- 明治31年(1898年) 樺山資紀文部大臣秘書官
- 明治32年(1899年) 文部大臣官房秘書課長
- 大正3年 (1914年) 南満洲鉄道株式会社理事
- 大正12年(1923年) 第二次山本内閣内閣書記官長
- 大正13年(1924年) 貴族院勅選議員に勅任(1月2日)[2]
- 昭和5年 (1930年) 露領水産組合長
- 昭和9年 (1934年) 国際電話株式会社社長
- 墓所は青山霊園(1ロ8-1~14)
栄典・授章・授賞
編集- 位階
- 勲章等
家族
編集編著
編集- 『満蒙経営と我が人口問題』樺山資英著、国粋会
脚注
編集参考文献
編集- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
外部リンク
編集公職 | ||
---|---|---|
先代 宮田光雄 |
内閣書記官長 第24代:1923年 - 1924年 |
次代 小橋一太 |