樋口謙太郎
樋口 謙太郎(ひぐち けんたろう、1907年5月14日 - 1994年3月8日)は、日本の医学者、皮膚科医。久留米大学、九州大学、福岡大学で皮膚科の教授を務め、多くの弟子を育てた。
経歴
編集- 1907年5月14日:福岡県三井郡小郡町にて出生。
- 1934年3月:九州帝国大学医学部卒業
- 1934年5月:九州帝国大学皮膚科副手
- 1936年8月:九州帝国大学皮膚科助手
- 1937年11月9日 : 学位論文 「皮膚釀母菌症の研究 」 九州大学受理。博士論文書誌データベースより
- 1937年12月:九州帝国大学皮膚科講師
- 1938年8月:釜山府立病院科長(皮膚科)
- 1942年2月:九州帝国大学皮膚科助教授
- 1943年8月:ジャカルタ大学教授(陸軍省の軍政地教授)
- 1946年7月:大村国立病院医長
- 1947年12月:久留米大学皮膚科教授
- 1948年10月:九州大学皮膚科教授
- 1957年2月:1年間欧米文部省在外研究員として留学(ドイツ)
- 1965年4月:九州大学附属病院院長(4年)
- 1971年3月:定年退官、同4月:名誉教授
- 1972年4月:福岡大学皮膚科教授:医学部長
- 1973年12月:同病院長
- 1978年3月:同定年退職
- 1978年4月:福岡大学特任教授
- 1994年3月8日:逝去[1]
叙勲・受賞
編集エッセイ
編集- 次の4冊がある。
- 『欧米紀行 医学者の眼』小山書店、東京、1959年 - 初版4000部が売り切れた。ミュンヘン留学期のことなど。
- 『ひとりごと』、1969年
- 『どんたーく』西日本新聞社、福岡、1977年 - 内容は「妻を語る」、「木下杢太郎」、医療制度と医学教育の在り方」、「ジャカルタ大学での思い出」など。
- 『巡る歯車』秀功社、福岡、1983年 - 内容は「庶民として」、「医学徒として」、「ロータリアンとして」、「旅行記」。
業績
編集- 日本皮膚科学会、化学療法学会、医真菌学会、アレルギー学会、病院管理学会の総会を引き受けた。
- 樋口謙太郎の名前で発表したのは約450編、指導論文700編、著書は約15冊、分担執筆は約30冊、教科書が多い。
- 教え子で医学博士号を取った者は約百名。
- 西日本連合地方会を結成した。
- 雑誌『皮膚と泌尿』を再刊した。
- 卒業直後、皆見教授より指間糜爛症の真菌培養を命じられ、仙台の太田正雄(木下杢太郎)の下に勉強に行った。
- 勤務地の釜山で白癬菌の原株を発見した。
- 1958年に「抗生物質による梅毒の治療および予防」という講演を行ったが、梅毒の症状が治癒しても、抗体反応が陽性の場合を、血清の瘢痕と表した。この表現は一般に受け入れられた。
カネミ油症事件
編集
樋口点状紅斑
編集- 樋口は1954年に雑誌皮膚と泌尿に「一種の点状紅斑」と発表したが、最初の発表者の名誉を重んじて「樋口氏点状紅斑」(Erythema punctatum Higuchi) と名付けられた[3]。症状は若い女性の四肢に好発する紅斑で貧血性の白暈が取り巻く。虫さされなどから発生する説や薬疹説もある[4]。
- この症状とほぼ同一と思われる疾患も1974年に発表があり、Hypoanesthetic Haloes in Hawaii(HHH disease)と命名されている。この原因は蚊Culex quinquefasciatusである[5]
- 最近の論文 An outbreak of eruptive pseudoangiomatosis-like lesions due to mosquito bites: erythema punctatum Higuchi.(2004) Ban M, Ichiki Y, Kitajima Y. Dermatology, 208:(4)356-9.