楚州 (江蘇省)
概要
編集南朝梁により設置された北兗州を前身とする。東魏により北兗州は淮州と改称された。北周のとき、寿張県に淮州の州治が置かれた。581年(開皇元年)、隋が建国されると、淮州は楚州と改称された。592年(開皇12年)、楚州の州治は山陽県に移された。605年(大業元年)に楚州は廃止され、管轄県は揚州に移管された[1]。
621年(武徳4年)、唐が臧君相を降伏させると、江都郡山陽県に東楚州が置かれ、山陽・塩城・安宜の3県を管轄した。625年(武徳8年)、西楚州の廃止にともない、東楚州は楚州と改称された。742年(天宝元年)、楚州は淮陰郡と改称された。758年(乾元元年)、淮陰郡は楚州の称にもどされた。楚州は淮南道に属し、山陽・淮陰・塩城・宝応・盱眙の5県を管轄した[2]。
宋のとき、楚州は淮南東路に属し、山陽・淮陰・塩城・宝応の4県を管轄した。1228年(紹定元年)、南宋により山陽県に淮安軍が置かれた。1234年(端平元年)、楚州は淮安州と改称された[3]。
脚注
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