楊守敬

1839-1915, 清末の学者

楊 守敬(よう しゅけい、拼音: Yáng Shǒujìng1839年5月27日道光19年4月15日) - 1915年1月9日)は、末の学者・蔵書家・文人。字は惺吾、号は隣蘇

楊守敬
楊守敬の肖像画(『清代学者象伝』)

人物

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湖北省荊州府宜都県陸城出身。1862年挙人となり、1865年には景山宮学教習となった。金石学に通じていたが、後に駐日公使の何如璋の随員となって来日。日本では中国国内ですでに逸文となっていた古典籍(佚存書)を収集した。日本の古典籍も収集していて、中でも将門記の真福寺本とは別系統の写本から書写された楊守敬旧蔵本が知られている。日本での購書ぶりは凄まじく、島田翰によれば街じゅうの書店が空になるほどだったという[1]。帰国後は勤成学堂の総教長を務めた。隣蘇園を築き、多くの蔵書を所有した。

欧陽詢の書風を受け継いだ能書家としても知られ、晩年は上海に寓居し、書を売って生計をたてた。また日下部鳴鶴中林梧竹などの能書家とも親交があった。

著書

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 高橋智『書誌学のすすめ 中国の愛書文化に学ぶ』東方書店、2010年。ISBN 978-4497210142。205頁

外部リンク

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