植村 東彦(うえむら はるひこ、1881年明治14年)4月25日[1][2] - 1964年昭和39年)5月18日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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茨城県出身[1]。植村茂の長男として生れる[1]1899年(明治32年)7月、学習院中等科を首席で卒業し、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる[1][3]1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]。さらに1908年(明治41年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学し、1911年(明治44年)7月、同大工科大学応用化学科を卒業し東京砲兵工廠付となった[1][4]

1916年(大正5年)5月から翌年1月まで欧米に出張[1]1920年(大正9年)8月、砲兵中佐に昇進し東京砲兵工廠砲具製造所長に就任[1][4]1924年(大正13年)2月、砲兵大佐に進級し、同年5月、東京精器製造所長に発令[1][4]。同年8月、陸軍省兵器局工政課長に転じた[1][4]1926年(大正15年)10月、陸軍技術本部員となり欧米に出張[1][4]。技術本部付を経て、1928年(昭和3年)3月、兵器局銃砲課長に就任した[1][4]

1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級し技術本部第1部長となる[1][2][4]1930年(昭和5年)5月、兵器局長に就任[1][2][4]1933年(昭和8年)8月、陸軍中将に進んだ[1][2][4]1934年(昭和9年)8月、陸軍造兵廠長官に発令された[1][2][4]。しかし、1936年(昭和11年)4月、造兵廠首席陸軍技師(勅任官西村文雄と共に兵器納入業者から賄賂を受け取ったとして逮捕され待命となり、同年7月、予備役に編入された[1][2]。 その後、東京衛戍刑務所に収容され、1937年(昭和12年)2月9日、第一師団司令部内の陸軍高等軍法会議法廷で公判が開始[5]。 同年4月、懲役2年6ヶ月、罰金43,070円の判決を受けた[1]。これにより従四位を失位[6]勲一等及び明治三十七八年従軍記章大正三年乃至九年戦役従軍記章大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章昭和六年乃至九年事変従軍記章戦捷記章大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された[7]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[8]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『日本陸海軍総合事典』第2版、26頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』120頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』175、178頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』178頁。
  5. ^ 杉山元を裁判長に植村中将の公判開く『大阪毎日新聞』1937年(昭和12年)2月10日夕刊,『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p761 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  6. ^ 官報 1937年5月25日 七四七頁
  7. ^ 官報 1937年7月2日五四頁
  8. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」185頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。