植村家包
日本の江戸時代中期の大名。江戸幕府旗本植村政広(初代藩主植村家政の子政春の孫)長男で、大和高取藩4代藩主植村家敬養子。高取藩5代藩主。従五位下刑部少輔・出羽守
植村 家包(うえむら いえかね / いえかつ)は、大和高取藩の第5代藩主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永7年(1710年) |
死没 | 元文3年8月13日(1738年9月26日) |
別名 | 政文(別名)、刑部(通称) |
戒名 | 実応性遍縁院 |
墓所 | 奈良県高市郡高取町上子島の宗泉寺 |
官位 | 従五位下、刑部少輔、出羽守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 大和国高取藩主 |
氏族 | 植村氏 |
父母 |
父:植村政広、母:中山直好の娘 養父:植村家敬 |
妻 | 正室:佐野察行の娘 |
子 |
娘(大村純保正室)、娘(蒔田定保正室) 養子:家道 |
生涯
編集宝永7年(1710年)、第2代藩主・植村家貞の弟・植村政春の孫に当たる2500石の旗本・植村政広の長男として生まれる。享保10年(1725年)、父の死去により家督を継いで旗本となる。しかし本家で第4代藩主・植村家敬の嫡男・高堅や養子の稲之助らが早世したため、享保14年(1729年)4月21日、家敬の養子となり、享保16年(1731年)に家敬が死去したため、跡を継いだ。このとき、2500石は幕府によって収公されている。
元文3年(1738年)8月13日に死去した。享年29。跡を家敬の実子の家道が継いだ。