森恭三
来歴
編集兵庫県西宮市出身[1]。父は神戸市の外国商館に勤務し、兵庫県立第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)に進学したが、在学中に父を失う[2]。1930年、東京帝国大学法学部を卒業後、大阪朝日新聞社に入社[1]。東京帝大在学中には帝大セツルメントの法律相談部で活動した[2]。大阪朝日新聞への就職は母を養う必要からで、社会運動を継続する友人に対して罪悪感を抱いており、大阪経済部に配属後は夜勤料を運動にカンパしていたという[2]。しかし1934年に逮捕状が出た(親友の前田俊彦の妹と交友を持ち、この妹の逮捕による)際に、その執行を差し止めた部長の和田信夫から「人間には得手、不得手がある。すべての人間が革命運動に走るのが正しいとはいえない」と諭されて新聞社に残った[2]。
1937年、ニューヨーク支局員となる[3]。1940年に日独伊三国同盟が締結されると、アメリカとの戦争を不可避とみて妻を帰国させた[2]。
日米開戦後、1942年に交換船で帰国[2]。その後の戦時中は海軍報道班員として東南アジアに駐在した[3]。戦後は労働組合委員長を務め、1952年にヨーロッパ総局長、1964年には論説主幹となる[1][3]。1967年に定年退職[1][3]。
東京大学の社会情報研究所、新聞研究所の教育部非常勤講師を務めた。
著書
編集脚注
編集参考文献
編集- 宇佐美承『さよなら日本 絵本作家八島太郎と光子の亡命』晶文社、1981年11月30日。ISBN 978-4794959379。
関連項目
編集外部リンク
編集- 森恭三コレクション - 東京大学社会情報研究所