梶川高秀
梶川 高秀(かじかわ たかひで)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。通称は平左衛門尉。
梶川高秀 | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 永禄11年10月2日(1568年10月22日) |
別名 | 通称:平左衛門尉 |
主君 | 水野信元→織田信長 |
氏族 | 梶川氏 |
父母 | 父:平九郎(宗玄) |
兄弟 | 高秀、一秀、秀盛 |
子 | 高盛 |
略歴
編集尾張国丹羽郡楽田(現・愛知県犬山市楽田)出身。平九郎(宗玄)の長男。
始め丹羽郡楽田城に住したが、後、中島郡奥村に移るという[1]。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの時、中島砦を守る[2]。
永禄11年(1568年)10月2日、摂津国池田城攻めの時、戦死した。
信長上洛直後の摂津池田城攻めの時、「水野金吾内」の「梶川平左衛門」が奮戦して討死した旨、「公記」に記載されている。「水野金吾」とは、25年も以前に没した水野忠政であり、かつて忠政に属していたという意味であろう。高秀の弟・秀盛が水野信元に属していたことは「張州雑志抄」などに記されているから、高秀も忠政からその子信元に属したと考えられる。