梅田芳穂
梅田 芳穂(うめだ よしほ、男性、1949年9月16日 - 2012年5月4日)は、日本の社会運動家。ポーランドの民主化に貢献した。
うめだ よしほ 梅田 芳穂 | |
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生誕 |
1949年9月16日 千葉県茂原市 |
死没 |
2012年5月4日(62歳没) マゾフシェ県ワルシャワ |
墓地 | ポボンスキ軍用墓地[1] |
国籍 | 日本 |
出身校 | ワルシャワ大学 |
団体 | 連帯 |
影響を与えたもの |
ポーランド民主化運動 日本とポーランドの経済交流 |
配偶者 | アグニェシュカ・ジュワフスカ・梅田 |
受賞 |
ポーランド文化功労章(2004) カヴァレルスキ十字勲章(2006) |
生涯
編集生い立ち
編集千葉県長生郡鶴枝村 (現:茂原市) に生まれる。実父は僧侶で後に関西学院大学教授となった梅田良忠、実母は角川ノンフィクション賞受賞作家の樋口久代。
ポーランド渡航
編集1963年に東欧学者であった父の遺言により、単身ポーランドに渡り、父の友人で考古学者・野党活動家のコンラッド・ヤヂヂェフ教授に家で下宿する[2]。のち母親がポーランド学者の工藤幸雄と再婚し、ワルシャワに住むようになったので、その後は母親と共に生活。[要出典]
民主化運動への参加
編集1968年にワルシャワ大学に入学、三月事件後に民主化活動組織に加わる[2][3]
ワルシャワ大学卒業後、日綿実業ワルシャワ事務所に入社。その後、本格的にポーランド民主化運動に携わり[3]日綿を退職する。
連帯の立ち上げと国外追放
編集「連帯」に参加。1981年に国外追放処分でパリに移る。同年ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世に特別謁見を許され、後の教皇のポーランド祖国訪問を導く。
1989年、永住権復活。民主的全国選挙の選挙参謀となり勝利した。
民主化後
編集1990年、有限会社「YOHO」創業。2001年ポーランド文化功労章、2006年ポーランド十字勲章受章[4]。
2012年5月4日にワルシャワの病院で死去、62歳[5]。
逸話
編集6ヶ国語を話す国際人である。[要出典]
脚注
編集- ^ “Wyszukiwarka cmentarna --- Warszawskie cmentarze”. 2021年10月17日閲覧。
- ^ a b “Yoshiho Umeda -jp – YOHO Ltd.”. 2021年10月17日閲覧。
- ^ a b NHK「ここから自由の風が ポーランド民主化から20年」2009.8.29.放送
- ^ „Spotkanie po latach” - uroczystości z okazji 30-lecia KOR w Pałacu Prezydenckim
- ^ 訃報:梅田芳穂さん62歳=元ポーランド連帯国際局次長 毎日新聞 2012年5月10日閲覧
外部サイト
編集- 本人による自伝的記述 - ポーランド在住の日本人の紹介サイト「ひと」