梅田治繁
梅田 治繁(うめだ はるしげ、? - 元文元年12月23日(1737年1月23日))は、江戸時代中期の薩摩藩の藩士、槍術家。本心鏡智流槍術を薩摩藩に伝えた。諱は治繁。通称は九左衛門。本姓は源氏。武蔵国江戸(現 東京都)の出身。幕臣(百人組与頭)であった本心鏡智流槍術開祖・梅田治忠(梅田杢之丞)の次男で、父より槍術を学んだ。
元禄年間に薩摩藩に仕官して200石を知行し、納戸役人や物頭を勤める。槍術のために特別に家格は代々小番となる。
元文元年(1737年)12月23日に死去する。菩提寺は曹洞宗松原山南林寺。法号は雪岑院梅友良日大居士。家督及び槍術師範職は子の梅田盛庸が継ぐ。
経歴
編集系譜
編集参考文献
編集- 上野尭史『鹿児島士人名抄録』高城書房
- なお、同書は『称名墓誌』や『人物伝備考付録(槍術)』を参考にしたという。
- 薩藩叢書刊行会『新薩藩叢書 III』歴史図書社
- 『三部合本(別本諸家大概記、鏡智流槍術由来、新納是久一流略系図)』(鹿児島県立図書館所蔵)
- 『三州御治世要覧』