梅小路定行
明治から昭和期の実業家、政治家、華族
梅小路 定行(うめこうじ さだゆき、1866年1月3日(慶応元年11月17日[1])- 1942年(昭和17年)3月26日[1][2])は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・栄麿[3][4]。
経歴
編集山城国京都で讃岐権守・梅小路定明の長男として生まれた[1][3][4][5]。明治元年11月21日(1869年3月3日)に父が死去し家督を継承[1][5]。1880年(明治13年)12月、定行と改名[4]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[4][5][6]。
京都華族会館勉学所、陸軍士官学校で学んだ[2][5]。1883年(明治16年)宮中殿掌に就任[2][5]。以後、日本勧業理事、不動貯蓄銀行取締役、私立東京工科学校長、京都市会議員、上京区会議員、政府貸付金処理委員会委員、米穀取引事業審議委員会委員などを務めた[2][5]。
1891年(明治24年)7月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[7][8]、1911年(明治44年)7月9日まで在任[2]。さらに、1929年(昭和4年)7月13日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[9][10]、研究会に所属して活動し、死去するまで通算6期在任した[2][5][11]。
親族
編集- 母 - 卜半了締の娘。和泉国貝塚、真教院[3]
- 先妻:修子(1867年生) - 子爵清岡長延二女、清岡長言の姉。1893年に離婚。清岡氏は半家 (公家)[1][12]
- 後妻:章子(ふみこ、1873-1949) - 難波宗明長女。宗明は公家で陸軍大尉、西南戦争で戦死した[1]
- 二女:梅溪加寿子(1903年生) - 梅溪通弘妻。通弘は梅溪家9代目当主梅溪通善子爵の子で梅溪通虎の叔父[1][5][13]。
- 長男:定雄(1909年生[14]) - 子爵[1]、刀匠[15]。妻は子爵鍋島直和の娘[15]。
- 二男:吉岡定美(1911-1984)- 東宝社長吉岡重三郎(1883年大阪生まれ、大阪商大卒)の長女初子の婿養子となる。京都大学経済学部卒。銀行員を経て、岳父が創業した東京テアトルに入社し、社長、会長を歴任した[1][16][17]。娘が二人いたが、初子の遺言により遺産は長年夫婦に仕えた家政婦に譲られ、娘らとの間で訴訟騒ぎが起きた[16]。
- 三男:実 - 池尻基房の養子。
- 庶子:牧野富子(1907年生) - 牧野元次郎長男太郞妻[18]
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成 上巻』253-254頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』37頁。
- ^ a b c 『梅小路家譜』
- ^ a b c d 『大日本華族大鑑』126頁。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第13版 上』ウ67頁。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第2419号、明治24年7月23日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、4頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。
- ^ 『官報』第762号、昭和4年7月15日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
- ^ 『現代華族譜要』日本史籍協会, 1929, p116
- ^ 梅小路定行『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 「華族名簿 昭和6年5月20日調」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 「現代財界家系譜 第4巻」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 家政婦が実の娘に勝った!資産家夫人の遺産3000万円を巡る「わが抗争」週刊現代、2016.2.9
- ^ 『ダイヤモンド会社職員録』ダイヤモンド社, 1951、p474
- ^ 牧野元次郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
参考文献
編集- 『梅小路家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年。
- 人事興信所編『人事興信録第 13版 上』人事興信所、1941年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 梅小路家初代 1884年 - 1942年 |
次代 梅小路定雄 |