梁川宗清
梁川 宗清(やながわ むねきよ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達氏の家臣。梁川氏の祖。梁川城主。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文元年(1532年) |
死没 | 慶長9年12月4日(1605年1月22日) |
改名 | 宗清→鉄斎(号) |
別名 | 通称:伊達左衛門 |
主君 | 伊達稙宗→晴宗→輝宗→政宗 |
氏族 | 伊達氏→梁川氏 |
父母 | 父:伊達稙宗、母:中館氏 |
兄弟 |
屋形御前(相馬顕胤室)、蘆名盛氏正室、伊達晴宗、大崎義宣、伊達実元、 二階堂照行室、田村隆顕室、伊達宗澄、宗清、亘理綱宗、亘理元宗、桑折宗貞、村田宗殖、極楽院宗栄、 越河御前(相馬義胤正室)、ほか |
妻 | 正室:大條宗家長女 |
子 |
白石宗直、村田宗友、小梁川宗重室、 西大立目重信室 |
生涯
編集天文元年(1532年)、伊達氏14代当主・伊達稙宗の八男として誕生。この年、稙宗は居城を梁川城から西山城に移している。
天文10年(1541年)、父の稙宗は鷹狩りの帰途、長男の晴宗に襲撃され捕縛された。稙宗は西山城に幽閉され、伊達氏内部での権力抗争、いわゆる「天文の乱」が始まった。天文12年(1543年)、宗清は梁川城主となり梁川氏を称した。天文17年(1548年)、天文の乱は晴宗派の勝利で終結した。稙宗は伊達家の家督を晴宗に譲って丸森城に隠居した。伊達氏15代当主となった晴宗は米沢城に本拠を移した。永禄8年(1565年)、晴宗は嫡男の輝宗に家督を譲り、杉目城に隠居した。輝宗は伊達氏16代当主・米沢城主となった。この年、父の稙宗が隠居地の丸森城で没した。天正5年(1577年)、晴宗が隠居地の杉目城で没した。
天正7年(1579年)、嫡子の白石宗直が梁川城で誕生した。天正8年(1580年)、次男の村田宗友が梁川城で誕生した。天正12年(1584年)に宗清は隠居し、鉄斎と称した。梁川氏は嫡子の宗直(6歳)が梁川氏2代目当主となった。またこの年、輝宗は嫡男の政宗に家督を譲り、政宗が伊達氏17代当主・米沢城主となっている。翌年、輝宗は没した。天正17年(1589年)、政宗が居城を黒川城に移すのに伴い、米沢城留守居を任ぜられた。天正19年(1591年)6月、葛西大崎一揆に伊達軍が出陣する際、宗清は国分盛重と共に米沢城留守居を命じられた。またこの年、豊臣秀吉による奥州再仕置により、政宗は岩出山城へ所替され、宗清もこれに従った[1]。
文禄2年(1593年)、嫡男の宗直が白石氏(水沢城)の白石宗実の娘と婚姻した。また次男の宗友も村田宗殖の婿養子となった。慶長4年(1599年)、白石宗実が没した。宗直の子で白石氏嗣子の白石宗貞はいまだ幼少だったため、宗直が後見となり白石宗直と称した。
慶長9年(1604年)12月4日死去。享年73。梁川伊達氏は嗣子なく断絶した。のち、宗直の子の宗元が梁川姓を称して再興し、柳川伊達氏として仙台藩内の序列に於いて準一家に列した。
系譜
編集脚注
編集- ^ 梁川城は上杉領となる。
参考文献
編集- 『梁川伊達氏四百五十年史』
- 『桑折町史』
- 『伊達治家記録』
- 『伊達世臣家譜』