『川角太閤記』には若輩の頃から豊臣秀吉に奉公した子飼衆の一人であり、秀吉の命によりその実弟である豊臣秀長に仕えたとある[2]。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは一番鎗の戦功を立て、丹波国内に3千石の俸禄を与えられた[1]。
天正19年(1591年)に秀長が没すると養子の秀保に仕え、その秀保も文禄4年(1595年)に亡くなると再び秀吉に仕えた[2]。しかし翌年の8月頃に死去した[1][2]。
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