栗林一石路
栗林 一石路(くりばやし いっせきろ、1894年(明治27年)10月14日 - 1961年(昭和36年)5月25日)は、日本の記者、俳人である。戦前の自由律俳句の俳人、プロレタリア俳句運動、小林一茶の評論研究家として知られる。本名は栗林 農夫(くりばやし たみお)。
経歴
編集長野県小県郡青木村に生まれる。1911年、荻原井泉水の自由律俳句誌『層雲』を読み、共感して同人に加入する。1920年に信濃黎明会が結成されると、普選運動、軍縮運動に参加。1923年に上京し、改造社に勤務しながら句作に励む。「改造」記者から新聞聯合社(のちに同盟通信社となる)に入社。社会部の記者となり岡村二一の部長時代に次長を務めた。在職中に青木宏という偽名を使い、「赤旗」に投句していた[1]。
1929年、第一句集『シャツと雑草』を刊行。プロレタリア俳句運動に没頭し、井泉水と路線が別れ、離脱[1]。1934年、橋本夢道たちとともに『俳句生活』を創刊し、生活俳句をうったえた。同盟通信社会部長のとき、1941年2月5日の朝、世田谷の自宅で治安維持法違反の容疑により逮捕された(新興俳句弾圧事件)。玉川警察署に連行され2年4ヶ月を未決勾留のため巣鴨拘置所で過ごし、1943年12月の裁判では懲役2年(執行猶予3年)の判決となったが保護観察の対象とされ、同盟蓼科農場の責任者として終戦を迎えた[2]。ジャーナリストとしては1945年12月、松本重治たちと新聞の「民報」を創刊。編集局長となるが1948年11月に廃刊させられる。
戦後、1946年には石橋辰之助、東京三(秋元不死男)、富澤赤黄男、湊楊一郎らと新俳句人連盟を設立、初代幹事長に就任する。1948年には、『俳句芸術論』を刊行し、桑原武夫の「第二芸術論」の批判をした。その後も俳句運動の中心的存在として活躍した。またソ連のヤロビ農法の普及に努め、『ヤロビの谷間』を著した。1961年5月25日午後5時、世田谷区の自宅で肺結核のため死去。66歳没。
息子の栗林一路は登山家であり、『山の計画手帳』『中年からの山歩き入門』(共に山と溪谷社)など、登山に関する本を出版している。
主な著書
編集- 栗林農夫名義