柳甫(りゅう ほ、? - 239年)は、中国三国時代の武将。238年に遼東の地で燕王を僭称した公孫淵配下の参軍。

238年景初2年)に討伐に来た司馬懿との1年近くにわたる戦いに惨敗した公孫淵は和睦の使者として相国・王建、御史大夫・柳甫らを送るが、司馬懿は聞かず、その場で柳甫と王建を斬首し、その首を2人の従者に持たせて帰らせた。この後、公孫淵は侍中衛演を使者に派遣し、今度は自身の子の公孫脩を人質に出すことを条件に和睦を結ぼうとしたがこれも司馬懿に突っぱねられた。公孫淵は逃走しようとしたところを捕らえられ公孫脩や延臣に遼東の7千人の男子とともに処刑された[1]遼隧の戦い)。

小説『三国志演義』でもほぼ同様のやり取りが描かれている[2]

脚注

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  1. ^   晉書 卷一帝紀第一 (中国語), 晉書/卷001#宣帝, ウィキソースより閲覧。  - 乃使其所署相國王建、御史大夫柳甫乞降,請解圍面縛。不許,執建等,皆斬之。檄告文懿曰:「昔楚鄭列國,而鄭伯猶肉袒牽羊而迎之。孤為王人,位則上公,而建等欲孤解圍退舍,豈楚鄭之謂邪!二人老耄,必傳言失旨,已相為斬之。若意有未已,可更遣年少有明決者來。」文懿復遣侍中衞演乞剋日送任。帝謂演曰:「軍事大要有五,能戰當戰,不能戰當守,不能守當走,餘二事惟有降與死耳。汝不肯面縛,此為決就死也,不須送任。」文懿攻南圍突出,帝縱兵擊敗之,斬于梁水之上星墜之所。既入城,立兩標以別新舊焉。男子年十五已上七千餘人皆殺之,以為京觀。偽公卿已下皆伏誅
  2. ^   三國演義 第百零六回 公孫淵兵敗死襄平 司馬懿詐病賺曹爽 (中国語), 三國演義/第106回, ウィキソースより閲覧。  -   眾將得令,次日侵晨,引兵四面圍合,築土山,掘地道,立砲架,裝雲梯,日夜攻打不息,箭如急雨,射入城去。公孫淵在城中糧盡,皆宰牛馬為食。人人怨恨,各無守心,欲斬淵首,獻城歸降。淵聞之,甚是驚憂,慌令相國王建,御史大夫柳甫,往魏寨請降。二人自城上繫下,來告司馬懿曰:「請太尉退二十里,我君臣自來投降。」懿大怒曰:「公孫淵何不自來?殊為無理!」叱武士推出斬之,將首級付與從人