枯木鳴鵙図
『枯木鳴鵙図』(こぼくめいげきず)[注釈 1]とは、江戸時代初期の剣術家、宮本武蔵(宮本二天)による水墨画である[3]。枯れ木の先端に留まるモズを描写した作品で、大阪府の和泉市久保惣記念美術館が所蔵する[4]。武蔵の代表的な書画作品のひとつとされ[2][5]、1935年(昭和10年)4月30日に重要文化財に指定された[1]。熊本県の島田美術館にも武蔵による同名の水墨画『枯木鳴鵙図』が収蔵されているが[6][7]、本項では重文指定された作品について述べる。
作者 | 宮本武蔵 |
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製作年 | 江戸時代初期 |
種類 | 紙本墨画 |
寸法 | 125.5 cm × 54.3 cm (49.4 in × 21.4 in) |
所蔵 | 和泉市久保惣記念美術館、大阪府和泉市 |
登録 | 重要文化財(1935年指定[1]) |
ウェブサイト | 和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム |
背景
編集室町時代から江戸時代へと移り変わるにつれて戦時の剣の技量が重要な意味を持った時代が終わりを迎え、世が平静を取り戻していく中において、異色の剣術二天一流を創始し、剣術家、兵法家などとして知られる武人宮本武蔵は、その晩年を熊本で過ごし、禅や書画、彫刻などを嗜んだ[8]。武蔵の残した絵画は10点ほどが正筆とされており、落款として「二天」(朱文額印、朱文香炉印)、「武蔵」(白文楕円頭長方印)、「宝」(朱文円印)などの印章が使用されている[9]。これらの絵は「武人画」と総称され、後世に伝えられている[9]。絵筆を握るにあたって特定の師がいたという話は伝えられておらず、剣の道と同じく自己流で研鑽したものと考えられている[10]。筆数の少ない水墨画という作品の特徴から海北友松の影響を見ることが出来、南宋の画家梁楷や牧谿といった中国画を見て技法を学んだものと推察される[9]。
来歴
編集本作品は江戸時代初期、武蔵が五十代のころに熊本で制作したとされる[6]。旧箱と呼ばれる『枯木鳴鵙図』の箱蓋には江戸後期の画家である渡辺崋山による「文政庚辰嘉平月四日渡邉登審鑑謹書」という箱書きと添え状が残れており、長らく崋山が所蔵していたとされている[6]。崋山が入手した経緯については四ツ谷の骨董店で見かけて一目惚れし、店主に頼み込んで譲ってもらったという逸話が残されている[11][12]。
明治に入る頃には翻訳家の横瀬文彦やわかもと製薬創業者の長尾欽弥といった蒐集家の手に渡った[2]。長尾は1931年(昭和6年)に鎌倉山に取得した別荘地を改装して長尾美術館を開設し『枯木鳴鵙図』を含む蒐集品を一般公開していたが、1949年(昭和24年)にわかもと製薬から離れ経済的基盤を喪失したことで蒐集品は売却された[13]。1965年(昭和40年)に刊行された矢代幸雄の『日本美術の特質』では「長尾家旧蔵、久保家所蔵」、同『図録』では「大阪 久保惣太郎」とされており[5][14][15]、少なくともこの年代には和泉市で綿業を営む久保惣の三代目久保惣太郎の手元に来ていたと思われる。国宝2点、重要文化財11点を含むおよそ11,000点の久保のコレクションは、1977年(昭和52年)に久保惣廃業を契機として和泉市に寄贈され、それらを展示する施設として久保家旧本宅跡地に和泉市久保惣記念美術館が1982年(昭和57年)に開館した[16][9]。
作品
編集冬の寒空の下で屹立した竹と見られる一本の枯木に一羽のモズが留まり、その中腹には尺取虫が這い上がっている[6]。水墨画家の山田玉雲は、中間に描かれた虫の存在が無ければ幹が持たないとして尺取虫は後で加えられた可能性を示唆している[17]。下方には鋭い先端の葉を持つ茂みが見られ、わずかに霞がかっている様が見て取れる[6]。冷気が幻視できるような緊迫感のある構図を没骨法を用いて墨の濃淡で表現した作品となっている[6]。モズと虫という二種類の生物のみに鑑賞者の視線を向けさせるよう余計な情報を排し、画面左右に大きな余白が設けられている点は、類例の無い武蔵の独特な画面構成と言える[6]。落款には「武蔵」(白文楕円頭長方印)が用いられている[6]。
また、切り立った枯木には減筆法と呼ばれる筆数を省略して対象の本質を捉える描法が用いられており、美術史家の谷信一は、室町時代の僧、一休宗純が描いた『梅画賛』と共通する表現技法であると指摘している[18][19]。谷は同時にこうした表現は書画を専門とする立場からは邪道とみなされ、本職の画家は試みないであろうという点を指摘し、武蔵が余技画家であった証左であるとともに、武人である武蔵だからこそ意義のある作品となっていると評している[18]。一方であまりの完成度の高さから武蔵の作では無いのではないかという疑問も呈されている[6]。
評価
編集作品を所蔵する和泉市久保惣記念美術館館長の河田昌之は本作品について「強い絵」という印象を持ったと述懐しており、隣に展示する作品の間隔や相性を十分に考慮しなければ他の作品の存在感を損ねてしまうほどの特殊な力を実感したと評している[9]。
美術史家の添田達嶺は努力が見える絵ではないとしつつも、枯れ木の幹やモズの姿などに宿る迫力は並の絵師に出せるものではなく、武蔵ならではの作品であると評している[2]。特に、鳥の特徴を把握したうえで減筆法で見事に表現している点については、粉本で学んだというだけでなく、相応の写生を繰り返したのではないかと推察している[20]。矢代幸雄は「武人の凝思と果断と練達となくしては、決して成し得ざる領域」とし、絵の中に宿る静と動の精神性について指摘している[21]。美術評論家の中村渓男は、武蔵の研ぎ澄まされた感性がよく表れた作品であると評しており、水墨画であることによって緊張感をより際立たせることに成功しているとしている[22]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b “紙本墨画枯木鳴鵙図〈宮本武蔵筆/〉”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2024年10月5日閲覧。
- ^ a b c d 添田 1936, p. 103.
- ^ “枯木鳴鵙図”. 和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアム. 和泉市久保惣記念美術館. 2024年10月6日閲覧。
- ^ 「枯木鳴鵙図」『デジタル大辞泉プラス』小学館 。コトバンクより2024年10月6日閲覧。
- ^ a b 矢代 1965, p. 490.
- ^ a b c d e f g h i 影山 2014, p. 3.
- ^ “宮本武蔵の遺墨・遺品”. SHIMADA ART MUSEUM. 公益財団法人島田美術館. 2024年10月12日閲覧。
- ^ 渡邉一郎「宮本武蔵」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館 。コトバンクより2024年10月19日閲覧。
- ^ a b c d e 影山 2014, p. 2.
- ^ 中村 1982, p. 16.
- ^ 添田 1936, p. 114.
- ^ 矢代 1965, p. 491.
- ^ 加藤映. “欽弥とよね”. 長尾資料館. 2024年10月16日閲覧。
- ^ 矢代 1965, 索引-p. 14.
- ^ 矢代幸雄『日本美術の特質 図録』岩波書店、1965年、101頁。doi:10.11501/2506681 。
- ^ “当館について”. 和泉市久保惣記念美術館. Kuboso Memorial Museum of Arts, Izumi. 2024年10月19日閲覧。
- ^ 全国水墨画美術協会 2002, p. 33.
- ^ a b 谷 1950, p. 15.
- ^ 「減筆」『デジタル大辞泉』小学館 。コトバンクより2024年10月19日閲覧。
- ^ 添田 1936, p. 100.
- ^ 矢代 1965, pp. 490–491.
- ^ 中村 1989, p. 3.
参考文献
編集書籍
編集- 添田達嶺『画人宮本武蔵』雄山閣、1936年。doi:10.11501/1875194 。
- 谷信一「宮本二天(武蔵)と剣禅画」『日本美術工芸』 309巻、日本美術工芸社、1950年、11-15頁。doi:10.11501/2281520 。
- 矢代幸雄『日本美術の特質』岩波書店、1965年。doi:10.11501/2506680 。
- 中村渓男「宮本二天筆 枯木鳴鵙図」『茶道の研究』 317巻、三徳庵、1982年、16-19頁。doi:10.11501/7891878 。
- 中村渓男「枯木鳴鵙図」『茶道の研究』 409巻、三徳庵、1989年、3頁。doi:10.11501/7891970 。
- 全国水墨画美術協会編著『剣禅一如 宮本武蔵の水墨画』秀作社出版、2002年。ISBN 4-88265-318-4。
Webサイト
編集- 影山幸一 (2014年8月15日). “宮本武蔵《枯木鳴鵙図》“生と死”逆転の命──「河田昌之」”. artscape. 大日本印刷株式会社. 2024年10月12日閲覧。