林三子雄
林 三子雄(はやし みねお、1864年12月13日(元治元年11月15日) - 1904年(明治37年)5月26日)は、日本の海軍軍人。日露戦争に「鳥海」艦長として出征し、第三回旅順港閉塞作戦総指揮官を務めた海軍大佐である。南山攻撃援護作戦で戦死。従五位勲三等功四級。
生誕 | 1864年12月13日(元治元年11月15日) |
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死没 | 1904年5月26日(39歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1886年 - 1904年 |
最終階級 | 海軍大佐 |
生涯
編集- 略歴
大坂南河内郡狭山村(現:大阪狭山市)出身。父は河内狭山藩士・林伊織[1]。海軍兵学校12期。席次は入校時次席、卒業時3番[2]。同期に有馬良橘、山屋他人、江頭安太郎などがいる。1894年(明治24年)大尉となり、「高雄」航海長を経て海軍大学校甲号学生(5期)を卒業。志摩清直、黒井悌次郎は同期生である。「秋津洲」航海長として日清戦争に出征。艦長・上村彦之丞のもと黄海海戦を戦った。戦後海兵教官を2年務めたのち、独留学を命じられる。同時に留学を命じられたのは秋山真之(米)、村上格一(仏)、財部彪(英)、広瀬武夫(露)である。留学期間は三年半に及び、在独中に中佐に進級している。帰国後「千代田」副長、「初瀬」航海長、横須賀海兵団副長、「天城」艦長を歴任。「鳥海」艦長に就任し、日露戦争に出征。第三回旅順閉塞作戦総指揮官を務める。第二軍の南山攻撃援護のため、「鳥海」は「筑紫」と南山砲台の砲撃に赴くが、ロシア軍の反撃により林は戦死した。
- 第三回旅順閉塞作戦[3]
1904年5月2日、第三回閉塞作戦総指揮官に任じられた林は「新発田丸」に乗船し指揮をとった。作戦目的は閉塞船12隻をもって旅順港を封鎖することにあり、参加人員には「新発田丸」指揮官附・中村良三、「釜山丸」指揮官大角岑生、「愛国丸」指揮官犬塚太郎などが含まれていた。1隻は機関故障のため離脱し、林は他の11隻及び収容隊を率いて旅順港に向かう。しかし天候険悪のため林は中止を決断。「赤城」にその旨を伝達するよう伝え反転した。しかし悪天候に妨げられ林の意図は伝わらず、閉塞船8隻及び収容隊は攻撃に向かった。5月3日午前零時、林は後続船が少ないことから反転し攻撃に向かったが、舵機故障のため目的を達することはできずに終わる。第三次閉塞作戦で攻撃に向かった八隻の乗員158名は、戦死、行方不明、負傷及びロシア軍の捕虜となったもの合計115名に及び、無傷で生還した者は43名であった。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
脚注
編集参考文献
編集- 「明治28年1月1日 現在艦船艇其他配員表」 アジア歴史資料センター Ref.C08040637100
- 「『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」」 アジア歴史資料センター Ref.C05110041500
- 「第14号 筑紫支隊南山砲撃死傷人名表」 アジア歴史資料センター Ref.C05110063400
- 池田清『日本の海軍』(上) 朝日ソノラマ ISBN 4-257-17083-2
- 井上秋剣編『日露戦史名誉列伝』駿々堂 、1906年
- 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房、1979年
- 外山操編『日本陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版 ISBN 4-8295-0003-4
- 秦郁彦『日本陸海軍総合辞典』東京大学出版会
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房