板垣信泰
板垣 信泰(いたがき のぶやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明[1] |
死没 | 不明[1] |
官位 | 右兵衛尉[2] |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 武田信虎 |
氏族 | 板垣氏 |
父母 | 父:板垣信能(善満坊) |
兄弟 | 信為?、信泰 |
子 | 信方?、室住虎登? |
生涯
編集武田信玄の傅役で、『甲陽軍鑑』に拠れば武田家の「両職」を務めたという板垣信方の父とされるが、異説も存在する[2][1]。『武田御日坏帳 二番』によれば、信方は天文14年(1545年)5月20日に高野山成慶院で「積翁浄善禅定門」の追善供養を行っており、これが信泰にあたるとも考えられている[3]。
信泰は於曽郷(山梨県甲州市塩山下於曽)を本拠とし、大永3年(1523年)閏年3月4日に生母「苗庵理根禅定尼」の逆修供養を高野山引導院で行なっている[2][1]。「向嶽寺文書」によれば、大永5年(1525年)2月25日、向嶽寺(甲州市塩山上於曽)明白軒に湯薬種田を寄進した[2][1]。年未詳3月20日にも同じく明白軒に「御きたさま」の代理として向嶽寺開祖の抜隊得勝へ寺領を寄進している[1]。この「御きたさま」は武田信虎正室の大井夫人を指すとする説がある[2]。