板倉重宣
板倉 重宣(いたくら しげのぶ)は、江戸時代前期の大名。上総高滝藩の初代藩主。庭瀬板倉家の祖。
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛文4年(1664年) |
死没 | 貞享元年8月21日(1684年9月30日) |
改名 | 三十郎(幼名)→重宣 |
別名 | 重相[1] |
戒名 | 安養院殿泰翁源山大居士 |
墓所 | 愛知県西尾市貝吹町入の長圓寺 |
官位 | 従五位下、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上総高滝藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 |
父:板倉重良、母:池田恒元の娘 養父:板倉重種 |
子 | 養子:重高 |
生涯
編集寛文4年(1664年)、三河中島藩主(後に下野烏山藩主)板倉重矩の世子である板倉重良の長男として生まれる。重良は本来なら重矩の後継者となるはずであったが、寛文12年(1672年)9月に病気を理由に重矩によって廃嫡され、家督は叔父の重種が寛文13年(1673年)に継ぐこととなった。重宣は重種のもとで養育され、なおかつ本来なら藩主を継ぐべき地位にあったことから、重種の世子として迎えられた。延宝6年(1678年)12月28日に従五位下越中守に叙位・任官する。
ところが、延宝9年(1681年)2月に重種が武蔵岩槻藩6万石に加増移封された際、重宣を廃嫡して自らの息子である重寛を世子にしたため、重宣や重宣の母は不満を持って重種と対立した。さらには母が備中岡山藩主池田光政の姪であったため、光政を頼って窮状を訴え、光政もこのことを幕府に訴えた。これが原因で板倉家では家督争いが起こり、第5代将軍徳川綱吉より家中取り締まりがよくないとして、重種は老中を罷免、謹慎処分が下され、天和2年(1682年)2月には信濃坂木藩5万石に減移封を命じられた。
このため、重種は天和3年(1683年)5月に隠居、初めは所領の奉還を幕府に願い出たが、幕府の裁定で所領のうち3万石を重寛に、2万石を重宣にそれぞれ分割相続させた。こうして、重宣は上総高滝藩主として大名となったが、翌貞享元年(1684年)8月21日に死去した。享年21。跡を養子の重高が継いだ。
脚注
編集- ^ 一統武鑑(宝永七年)、御林武鑑(宝永二年)、本朝武系當鑑(元禄八年、四年)、本朝武鑑(元禄元年)の板倉家系譜には重相の名で記載されている