松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日[1])は、日本政治家衆議院議員弁護士社会活動家

松谷與二郎

来歴・人物

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石川県金沢市生まれ。1903年明治法律学校卒業[2]

1914年弁護士を開業し、虎の門事件難波大助国選弁護人を引き受ける[3]など、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。

1926年日本労農党創立に参加、全国大衆党全国労農大衆党の顧問を務める。1930年第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する[4]。その後全国大衆党全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く[5][6]。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟国民同盟日本国家社会党を経て、1934年勤労日本党総理[7][8][9]となった。1937年3月16日、裁判所からの帰宅途中に麹町区西日比谷の路上でオートバイにはねられ、翌17日に死去[10]

作家としても知られ、「百年後の日本」などの小説を著した。

次女の松谷みよ子は児童文学者として知られた。また長女の宗武朝子は評論家、長男の松谷春男は漆芸家として活躍した[11]

脚注

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