松殿忠冬
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿 (1296-1348)
松殿 忠冬(まつどの ただふゆ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。正二位権中納言・松殿冬房の子。官位は従二位・権中納言。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 永仁4年(1296年) |
死没 | 貞和4年3月15日(1348年4月14日) |
官位 | 従二位・権中納言 |
主君 | 後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇 |
氏族 | 松殿家 |
父母 | 父:松殿冬房 |
子 | 忠隆 |
出自
編集藤原北家松殿流嫡流。松殿家の初代は松殿基房[1]だが、治承・寿永の乱の最中に基房が失脚した後生まれた四男の松殿忠房[2]の直系子孫がその後続く事となる。その後松殿家は良嗣系と兼嗣系に分かれるが、冬房は良嗣の子であり、直冬は孫にあたる。兼嗣系では通輔、忠嗣、冬輔と続き、忠嗣は忠冬の又従兄弟にあたる。
経歴
編集永仁6年(1298年)に従五位下、乾元2年(1303年)に侍従、延慶4年(1311年)に右近衛少将、応長2年(1312年)に正四位下、正和5年(1316年)には右近衛中将と昇進する。この時期は持明院統・花園朝期であり、父・冬房も正二位・権中納言まで昇進した。しかし、文保の和談で大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)が即位すると父共々昇進は停滞する[3]。
嘉暦4年(1329年)に左近衛中将。鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による建武の新政破綻、南北朝分裂後の建武4年(1337年)に従三位となり、公卿に列せられたが既に42歳となっており、父が正四位下から従三位となったのに10年要したのに対し、忠冬は25年も要した[4]。
その後は翌建武5年(1338年)に参議・左近衛中将[5]、暦応5年(1342年)に正三位・権中納言、貞和3年(1347年)に従二位となるが、翌年に薨去。享年53。松殿家は良嗣系は振るわず、兼嗣系の忠嗣が忠冬の官位・官職を越すが、南朝に離反してしまい、以後衰退、戦国時代には断絶する。
系譜
編集- 父:松殿冬房
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:松殿忠隆