松平義端
美濃高須藩第12代藩主
松平 義端(まつだいら よしまさ)は、江戸時代後期の大名。美濃国高須藩12代藩主。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 安政5年6月4日(1858年7月14日) |
死没 | 万延元年5月18日(1860年7月6日) |
改名 | 秀麿(幼名)→義端 |
戒名 | 泰巌院殿瑞譽秀光映林大童子 |
墓所 | 岐阜県海津市南濃町上野河戸の行基寺 |
官位 | なし |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂 |
藩 | 美濃高須藩主 |
氏族 | 高須松平家 |
父母 | 父:徳川茂徳、母:丹羽長富娘・政姫 |
兄弟 |
義端、徳川達道ら 養兄弟:徳川義宜 |
妻 | なし |
子 | なし |
生涯
編集11代藩主・松平義比(のちの尾張藩主徳川茂徳、一橋家当主徳川茂栄)の長男として誕生。母は丹羽長富の娘。幼名は秀麿。
安政5年(1858年)8月、安政の大獄の処分により伯父の尾張藩主・徳川慶恕の隠居謹慎に伴って父・義比(改め茂徳)がその跡を継いだため、生後2か月で高須松平家の家督を継ぎ、早くも諱として義端を名乗るが、万延元年(1860年)5月18日、僅か3歳で死去した。
嗣子はなく、叔父の義勇が跡を継いだ。
系譜
編集父母
脚注
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