松平穆堂
日本の書家
松平 穆堂(まつだいら ぼくどう、1884年(明治17年)10月22日 - 1962年(昭和37年)10月15日)は、日本の書家。以文会(現・致道博物館)理事、松平武右衛門家10代当主[1]。黒崎研堂門下では吉田苞竹と双璧をなした[2]。
来歴
編集1884年(明治17年)10月22日、塚原権平の子として、山形県東田川郡松ヶ岡(現・鶴岡市羽黒町)に生まれる。松平武右衛門家9代当主・松平久彰の養子となる[2]。その後、黒崎研堂の門下生となり、書と詩を学ぶ。
1907年(明治40年)山形師範学校を卒業し[1]、最上郡鮭川村小学校に勤務[1]。1908年(明治41年)教員試験に合格し中等教員習字科の免許を取得する。1912年(明治45年)酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)教諭[2]。1916年(大正5年)書道の修行のため同女学校を辞職して、中華民国青島市に渡る[2]。現地では青島日本高等女学校に勤務した[2]。
1928年(昭和3年) 日本に帰国して鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校)に勤務[2]。1934年(昭和9年)鶴城書道会を設立して会長に就任。1939年(昭和14年)宮内省・図書寮嘱託職員就任。1942年(昭和17年)鶴岡高等女学校に再び勤務。書道館で門下生の指導にあたる。
1950年(昭和25年)6月、以文会(現・致道博物館)が設立され理事に就任。1962年(昭和37年)3月 同書道会会長を退任する。後任に酒井忠悌が就く。同年10月15日死去。享年78。鶴岡の大督寺に墓がある。