松平正愛
松平 正愛(まつだいら まさよし)は、江戸時代中期から後期の旗本(寄合)。正朝系大河内松平家5代。石高は3500石。
時代 | 江戸時代中期‐後期 |
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生誕 | 宝暦10年8月12日(1760年9月20日)[1] |
死没 | 寛政2年3月4日(1790年4月17日)[2] |
改名 | 友吉→帯刀→兵部→主水→求馬 |
戒名 | 泰賢院殿道誉徳音大居士 |
墓所 | 駒込蓮光寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平方政 母:かつ(松平正方の娘) |
兄弟 | 正愛、某、まさ(酒井忠倪室)、あい |
妻 |
渡辺信綱の娘→戸田氏之の娘 →大草高方の娘→つね(牧野惟成の娘) |
子 | 養子:正卜 |
生涯
編集宝暦10年(1760年)8月12日に松平方政の長男として生まれる。明和5年(1768年)6月6日に祖父松平正方が死去し、9月6日に嫡孫承祖する(父は病により廃嫡となっていたため)。安永6年(1777年)12月21日、初めて将軍徳川家治に拝謁する。安永8年(1779年)5月18日から天明2年(1782年)5月17日まで小石川口門番を勤める。天明3年(1783年)1月11日に使番となり、12月18日に布衣の着用を許される。天明5年(1785年)8月23日、火事場見廻を兼ねる。天明6年(1786年)5月4日、小普請組支配となる。天明8年(1788年)8月16日、将軍の意に沿わないことがあったとして罷免される。寛政2年(1790年)3月4日に死去。享年31(公的には33)。子が無かったため、同族の旗本・松平正明の次男正卜が末期養子となり相続した。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第二百五十七
- 『幡豆町史 資料編2 近世』