松平吉透
松江藩第4代藩主
松平 吉透(まつだいら よしとお)は、江戸時代前期から中期の大名。出雲国松江新田藩主、のち松江藩4代藩主。官位は従四位下・出羽守、侍従。雲州松平家4代。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文8年7月16日(1668年8月23日) |
死没 | 宝永2年9月6日(1705年10月23日) |
改名 | 幸松(幼名)、近憲(初名)、吉秀、吉透 |
別名 | 頼母(通称) |
戒名 | 源林院殿真誉覚道俊巌大居士 |
墓所 | 島根県松江市外中原町の月照寺 |
官位 | 従五位下民部少輔、従四位下出羽守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 出雲松江新田藩主、出雲松江藩主 |
氏族 | 雲州松平家 |
父母 | 松平綱隆、養法院 |
兄弟 | 大学、弁丸、小次郎、綱近、吉透、津与、豊姫、清 |
妻 | 松平昌勝娘清寿院、内田氏 |
子 | 宣維ら |
生涯
編集寛文8年(1668年)7月16日、2代藩主・松平綱隆の五男として誕生した。元服の際には、兄で3代藩主となった綱近から偏諱を与えられて近憲(ちかのり)と名乗る。また、元禄14年(1701年)10月25日には綱近から1万石を分与されて松江新田藩主となり、同年12月6日には従五位下・民部少輔に叙任された。綱近には世継ぎとなる子が夭折しておらず、自らも眼病を患ったため、元禄17年(1704年)2月23日に近憲を世継ぎとした。
宝永元年(1704年)5月29日、兄の隠居に伴い家督を相続した。同年6月5日に出羽守に遷任する。同年11月13日、5代将軍・徳川綱吉から偏諱を授かり、近憲から吉秀(よしひで)と改名(する時期・理由不明ながら後に「之」を加えた吉透(よしとお)に改名)。さらに従四位下に昇叙し、侍従を兼任した。しかし家督相続から1年後の翌宝永2年(1705年)9月6日、江戸で死去した。享年38。跡を次男の宣維が継いだ。