杲隣(ごうりん、神護景雲元年(767年[1] - 没年不詳)は、平安時代前期の真言宗。空海の十大弟子の一人。出自については不詳。

略歴

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はじめ東大寺三論宗法相宗を学び、のち空海に師事して密教を学んだ。812年弘仁3年)には実恵智泉とともに高雄山寺三綱に選ばれ、上座となっている。一説には、833年天長10年)に空海にしたがって高野山にのぼり修禅院を建立したという。また、空海の没後、京に修学寺を開き教授したとか、伊豆国に住して走湯房・修禅寺を開創したと伝えられる。836年承和3年)、実恵が入唐請益僧真済に託した書状(遭難のため唐に届けられず)には、空海から伝法の印可を蒙った弟子8人の中に「嶺東の杲隣」としてその名が見えるほか、翌837年(承和4年)に弟子円行に渡った際の書状にも署名した8人の中に「伝灯大法師杲隣」として見える。833年(承和3年)より846年(承和13年)の間、奈良県五條市の転法輪寺の二代目住職を務め、その後に修禅寺へ旅立つとある(転法輪寺先師過去帳に記載)。その後の消息は不明である。

なお、878年元慶2年)11月11日の真雅言上状[2]には、杲隣の付法弟子として、入唐した前述の円行のほか、十禅師伝灯大法師位として真隆(伝不詳)の名が見える。

脚注

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  1. ^ この生年は、承和4年(837年)4月5日付僧綱牒(続々群書類従本『東宝記』第七)に「年七十一」とあることから逆算されたものだが、武内孝善「泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性」(『高野山大学論叢』37、2002年)は僧綱牒とそれに基づいて算出された泰範の生年の信憑性を否定しており、杲隣の生年も同様に否定されることになる。
  2. ^ 「本朝伝法灌頂師資相承血脈」(『大日本古文書』家わけ19、醍醐寺文書之一、279号)所載。