東京行幸
東京行幸(とうきょうぎょうこう)は、明治元年(1868年)と明治2年(1869年)に行われた、明治天皇の京都から東京への行幸。東幸(とうこう)とも略称される。
概要
編集慶応4年4月11日(1868年5月3日)の江戸開城後に前島密が江戸遷都論を展開し、東京奠都が既定路線となると、明治天皇は7月17日(9月3日)に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸改め東京で政務を執ると宣言した。
8月27日(10月12日)に即位の礼、9月8日(10月23日)に改元を済ませた明治天皇は、明治元年9月20日(11月4日)に京都御所を出発、9月27日(11月11日)に熱田神宮を親拝、10月13日(11月26日)に江戸城改め東京城に到着した。
一度目の東京行幸は、それまで天皇に親しみのなかった江戸の民衆へのデモンストレーションの意味もあった[1]。明治政府の指導者たちは、11月4日(12月17日)には東京1592町に2553樽の酒と、それを注ぐ瓶子を配った(「天杯頂戴」)[1]。11月6日・7日(12月19日・20日)の両日は皆仕事を休み、屋台や山車を繰り出して祭り気分を味わった。これを受け、諸外国も「みかど政府」を日本の中央政府として正式に承認した[1]。
12月25日(1869年2月6日)に先帝祭(孝明天皇祭)、12月28日(2月9日)に一条美子(のちの昭憲皇太后)との結婚の儀を控えた明治天皇は、12月8日(1月20日)に東京城を出発、12月22日(2月3日)に京都御所に到着した。
京都御所で昭憲皇太后と正月を過ごした明治天皇は、明治2年3月7日(4月18日)に京都御所を出発、3月12日(4月23日)に伊勢神宮を親拝、3月28日(5月9日)に東京城改め皇城に到着した。
二度目の東京行幸では太政官(政府)も東京へ移され、東京は事実上の日本の首都となったが[1]、昭憲皇太后を伴った行幸啓ではなく、京都に留守官が置かれた。しかし、8月24日(9月29日)に昭憲皇太后の東京行啓が京都府へ布達され、昭憲皇太后は10月5日(11月8日)に京都御所を出発、10月24日(11月27日)に皇城に到着した[2]。明治4年8月23日(1871年10月7日)には留守官が廃止された。
年表
編集脚注
編集- ^ a b c d 高木利夫「東京と文学(1)近代化過程における相互の関連について」『法政大学教養部紀要』第90号、法政大学教養部、1994年2月、75-101頁、doi:10.15002/00004584、ISSN 02882388、NAID 120001613898。
- ^ 吉岡拓「明治初年における民衆と朝廷 : 明治二年皇后東京行啓における反対活動を事例として」『史学』第73巻第1号、三田史学会、2004年6月、15-33頁、CRID 1050564288899052032、ISSN 03869334、NAID 110007410992、2025年1月7日閲覧。