杉氏
(杦氏から転送)
杉氏(すぎうじ)は日本の氏族であり、椙氏、杦氏とも書かれる。主な流派には以下のものがある。
- 豊前杉氏は豊前国の武士。周防大内氏の譜代家臣。豊前(現・福岡県北九州地区から大分県中津市域)における守護代職の世襲で知られるが、他に和泉・長門・筑前(それぞれ大阪府南西部・山口県西部・福岡県福岡地方)守護代に登用した例もある。戦国時代の本拠は豊前ながら大内氏本拠の山口県域にも一族は多く、幕末の吉田松陰の実家などが知られる。応永18年(1411年)の書状では本姓平氏[注釈 1]だが、系図[要出典]には大内氏と接続されているものがあり、細かな事情は不明である。
- 和泉杉氏は薩摩御家人で、足利尊氏に従い肝付兼重に抵抗した杉道悟(和泉杉三郎入道)・保右(杉弥三郎)父子などが記録に残る[注釈 2]。和泉荘(現・鹿児島県出水市)下司の支族で、杉は荘園内の地名に由来する[注釈 3]。
- 犬鳴の杉氏は筑前国鞍手郡(現・福岡県宮若市・直方市など)の国人で、室町時代には豊前杉氏の支配下にあった。長保二年(1001年)、犬鳴川流域の豪族香井田並緒による築城に始まり、8代目の香井田重緒が治承・寿永の乱(源平合戦)での戦功により、源頼朝が平家与党の山鹿秀遠(菊池氏一族粥田経遠の子で香井田氏と同族ともされる)から没収した粥田荘の300町を与えられたが、この際に新たな苗字として杉を授与され杉重緒を称したという[10][注釈 4]。
- 清和源氏足利氏族の杉氏は水野義純流である[11]。
- 清和源氏世良田氏族には出自不詳の杉氏がある[要出典]。
- 宇多源氏佐々木氏族にも出自不詳の杉氏がある[要出典]。
- 宮氏庶流有地氏は藤原氏後裔杉兼之流を称する[要出典]。
諸武将の家紋を列挙した『羽継原合戦記』には「きほたん(枝牡丹)は杉かもん」との記述があるが[要出典]、上記のいずれの杉氏を指したものかは不明である。
なお、以下の記事は豊前杉氏についての記述である。
豊前杉氏
編集室町時代
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一般に初代とされる杉貞弘は観応の擾乱当時に足利直冬の武将として記録される人物で、観応3年(正平7年、1352年)には同じく直冬配下の内藤藤時とともに対立勢力の大内弘世と度々交戦している。大内弘世は正平一統後に一時直冬に属したが最終的には離反、この頃に直冬の消息も途絶えた。正平一統以後の杉氏については史料が少ないが、擾乱発生から半世紀後に弘世の子・義弘が起こした応永の乱の頃には完全に義弘の勢力に組み込まれており、『応永記』には大内配下の武将として杉豊後入道(杉豊後守)、杉備中守、杉九郎などの名が見える。
戦国時代
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大内氏の晩期となる義興・義隆の時代には杉八家と呼ばれる8つの家系があったとされるが、その系図は明確ではない。この頃には筑前守護代家・豊前守護代家を中心に九州方面の攻略を務め、大友氏・少弐氏と博多や大宰府の支配権を争った。天文20年(1551年)に発生した陶晴賢の謀反劇では各家で対応が分かれるなど大きく混乱、大内氏の滅亡を生き延びた家も帰属先は対立しあう毛利方・大友方に分かれた。
人物
編集- 大内氏守護代
- 重矩家
- 興運家
- 杉武連 - 筑前守護代
- 杉興長 - 筑前守護代、大内義興より1字を賜う。
- 杉興運 - 筑前守護代、大内義興より1字を賜う。
- 杉重忠
- 杉連並
- 杉連緒 - 筑前龍ヶ岳城主、豊前香春嶽城主
- 杉隆景 - 大内義隆より1字を賜う。
- 隆相家
- 杉弘相 - 大内政弘より1字を賜う。
- 杉興相 - 大内義興より1字を賜う。
- 杉隆宣 - 大内義隆より1字を賜う。
- 杉隆相(元相)- 初め大内義隆、のち毛利隆元より1字を賜う。
- 杉元宣 - 断絶
- 杉元常 - 末期養子
- 隆泰家
- 杉貞泰(宗珊)
- 杉隆泰 - 鞍掛合戦で父・宗珊とともに戦死。
- 杉鎮頼(旧字:杉鎭頼) - 幼名、専千世(専千代丸)。宗珊・隆泰父子の死後、大友義鎮(宗麟)の許へ逃亡。そのまま義鎮に仕え「鎮」の字を賜う。耳川の戦いで戦死。
- その他
- 杉興重(宗長) - 山城国愛宕郡代、8人の大内評定衆一人、大内義興より1字を賜う。
- 杉隆真 - 初め大内義隆より1字を賜い隆真を名乗るが、のち厳島神社神主となり佐伯景教に改名。(→ 厳島神主家の項も参照のこと。)
- 杉武明 - 大内義興への謀反に失敗
吉田松陰
編集尊皇攘夷思想家の吉田松陰(杉矩方)や松下村塾創立者の玉木文之進(玉木正韞)を輩出した幕末の毛利藩下士[12]・杉氏はこの傍流とされる。近現代においては実業家の杉道助が松陰の兄・杉梅太郎(民治)を祖父に、保守思想家の小田村四郎が松陰の妹・杉寿子を曾祖母に持つ。
━:実子 ─:養子 =:婚姻 (参考:田中俊資『吉田松陰』)
杉文左衛門政常 │ │ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 七郎兵衛政之 吉田友之允重矩 ┃ ┃ ┌────────────────┐ ┣━━━━━┛ 文左衛門徳卿 又五郎矩定 │ 十郎左衛門矩行 ┃ ┃ │ │ 七兵衛常徳 他三郎矩建 乃木希次 │ 半平 ┣━━━━━━━━┿┳━━━━┓ ┣━━┓ │ │ たき子=百合之助常道 大助賢良 (玉木)文之進 希典 ┃ │ 二十郎矩之 ┃ │ ┠──┐┏━━━━┛ │ │ ┃ │ 彦助 正誼=杉豊子 │ 市佐矩直 ┃ │ ┃ └──┘ ┃ │ 正之 ┣━━━━━━━━┿┳━━━━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━┓ 梅太郎修道(民治) 大次郎矩方(松陰) 芳子(千代) 寿子 艶子 美和子(文) 敏三郎 │ ┃ │ =児玉祐之 =小田村伊之助(楫取素彦) =久坂義助(玄瑞) 相次郎┃ │ ┃ ※先妻 =楫取素彦 ※後妻 ┃ ┃ ┌──┘ ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 道助 ┃ │ ┃ ┣━━┿┳━━┳━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━┓ ┃ 玉木正誼=豊子 小太郎 滝子 ┌道子┐ 小三郎 清四郎 梅子 静子 ┃ │ =杉相次郎 │ │ =伊藤勘作 ┃ └─────────┘ └──────────────────庫三─彦熊
その他
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 応永18年10月7日、周防の杉弾正忠による書状に平盛重と署名されている(阿弥陀寺文書[1])。
- ^ 大日本史料収蔵史料では杉左衛門次郎入道(『薩藩旧記』[2]、杉三郎入道道悟(『薩藩旧記』[3]、『旧典類聚』[4])、杉弥三郎保右(道悟の子、『薩藩旧記』[5])、杉伴三郎保末(『薩藩旧記』[6])、杉弥三郎保三(『薩藩旧記』『島津国志』[7])、杉五郎[8]
- ^ 『島津国史』収録史料に「道悟者和泉下司之支族、杉地名在和泉荘」とある[9]。
- ^ ただしこちらの杉氏も鎮西平家との関係が示唆されていることや、豊前杉氏の一族とされる一方で香井田氏の龍ヶ岳城を拠点としていた杉連緒・杉連並などの存在からみて、豊前杉氏は犬鳴杉氏から分かれて栄えた支族であると考えるほうが自然だろう。
出典
編集- ^ 大日本史料 2008a, p. 517.
- ^ 大日本史料 1901, p. 819.
- ^ 大日本史料 1903, p. 237.
- ^ 大日本史料 2008b, p. 18.
- ^ 大日本史料 1903, pp. 342–344.
- ^ 大日本史料 1906, p. 571.
- ^ 大日本史料 1907, p. 900.
- ^ 大日本史料 2008c, p. 677.
- ^ 大日本史料 1903, p. 239.
- ^ 竜徳史考 [リンク切れ]。
- ^ 『系図纂要』の「源朝臣 足利 本多」の項。
- ^ 【ひとすじの蛍火-吉田松陰 人とことば】春篇(2)幼き軍師|文化|カルチャー|Sankei WEB [リンク切れ]
参考文献
編集- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料』 第6編之2、東京帝国大学、1901年10月5日。全国書誌番号:73016127 。
- 東京帝国大学文学部史料編纂所編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料』 第6編之3、東京帝国大学、1903年3月24日。全国書誌番号:73016127 。
- 東京帝国大学文学部史料編纂所編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料』 第6編之5、東京帝国大学、1906年3月7日。全国書誌番号:73016127 。
- 東京帝国大学文学部史料編纂所編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本史料』 第6編之6、東京帝国大学、1907年3月16日。全国書誌番号:73016127 。
- 東京大学史料編纂所編. “『大日本史料』 7編14冊517頁” (TIF). 大日本史料総合データベース. 東京大学史料編纂所. 2008年3月9日閲覧。
- 東京大学史料編纂所編. “『大日本史料』 6編19冊18頁” (TIF). 大日本史料総合データベース. 東京大学史料編纂所. 2008年3月9日閲覧。
- 東京大学史料編纂所編. “『大日本史料』 6編16冊677頁” (TIF). 大日本史料総合データベース. 東京大学史料編纂所. 2008年3月9日閲覧。
外部リンク
編集- 吉田松陰の生家杉家について - ウェイバックマシン(2008年2月25日アーカイブ分)