来迎院 (京都市左京区)
来迎院(らいごういん)は、京都府京都市左京区大原来迎院町にある天台宗の寺院。山号は魚山。本尊は薬師如来。
来迎院 | |
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本堂 | |
所在地 | 京都府京都市左京区大原来迎院町537 |
位置 | 北緯35度7分7.1秒 東経135度50分15.5秒 / 北緯35.118639度 東経135.837639度座標: 北緯35度7分7.1秒 東経135度50分15.5秒 / 北緯35.118639度 東経135.837639度 |
山号 | 魚山 |
宗旨 | 天台宗 |
本尊 | 薬師如来 |
法人番号 | 3130005001928 |
歴史
編集平安時代前期に慈覚大師円仁が天台声明の道場として創建したのに始まると伝えられる。天仁2年(1109年)融通念仏の祖とされる聖応太師良忍がこの寺に入寺して再興した。それにより勝林院を本堂とする下院と来迎院を本堂とする上院が成立し、この両院を以て付近一帯は「魚山大原寺」と総称されるようになった。以来、大原で伝承されてきた声明は「天台声明」や「魚山声明」と呼ばれる。
たびたび焼失したが、その度に再建され、現在の建物は天文2年(1533年)に再建されたものである。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられている。
文化財
編集伝教大師度縁案並僧綱牒
編集伝教大師度縁案並僧綱牒(でんぎょうだいしどえんあん ならびに そうごうちょう、国宝)は、最澄(伝教大師)の得度や受戒に関わる文書類3点を一巻としたもので、最澄の伝記資料としてきわめて貴重なもの。東京国立博物館に寄託されている。
宝亀11年(780年)近江国府牒案、延暦2年(783年)最澄度縁案、延暦4年(785年)僧綱牒の3通の文書からなる。1通目の近江国府牒案は、近江国府が最澄の得度を近江国師(地方僧官)あてに通達した文書の案文。2通目の最澄度縁案は、最澄に関わる度縁(律令制度下において僧尼たることを政府が公式に認めた文書)の案文。3通目の僧綱牒は、僧綱(僧尼を統轄する官職)が最澄を延暦4年の受戒者として認可した文書。1、2通目の文書は案文であるが、この僧綱牒は正文であり、紙面には「僧綱之印」が捺されている。1通目の文書には最澄の俗名(三津首広野)、出身地(近江国滋賀郡古市郷)などが記され、2通目の文書には最澄のほくろの場所などの身体的特徴が記されている。
国府牒
国府牒国師所
応得度壱人
三津首広野年拾伍 滋賀郡古市郷戸主正八位下三津首浄足戸口
読法華経壱部 最勝王経壱部
薬師経壱巻 金剛般若経壱巻
方広経開題 具唱礼 金蔵論我慢章壱巻
三宝論壱巻 俗典二巻
牒被治部省去十月十日符偁、被太政官今月五日符偁、得近江国解偁、国分寺僧最敦死欠之替、応得度如件、者省宣承知依例施行、者国宣承知依例得度、者国依符旨牒送如件、宣察此状依符施行、今次状牒
宝亀十一年十一月十日
大堟藤原朝臣俊房
度牒
沙弥最澄年十八
近江国滋賀郡古市郷戸主正八位下三津首浄足戸口
同姓広野
黒子頸左一 左肘折上一
右被治部省宝亀十一年十一月十日符偁、被太政官同月五日符偁、近江国国分寺僧最寂死欠之替、応得度、者十一月十二日国分金光明寺得度
師主左京大安寺伝灯法師位行表
延暦二年正月廿日
国府牒
僧綱 牒近江国師今年受戒僧事
僧最澄年廿
近江国滋賀郡古市郷戸主正八位下三津首浄足戸口 同姓廣野 黒子頸
左一 左肘折上一
牒上件僧以今年受戒巳■国師承知■於国司編付国分寺僧帳今以■下牒至
奉行
延暦四年四月六日
大僧都賢璟 従儀師常耀
少僧都行賀 威儀師明道
律師 威儀師乗万
律師玄憐
国宝
編集- 伝教大師度縁案並僧綱牒 - 解説は既出。
- 日本霊異記 中下 2帖
重要文化財
編集- 木造薬師如来坐像・木造阿弥陀如来坐像・木造釈迦如来坐像(本堂安置)
- 来迎院如来蔵聖教文書類 - 来迎院の如来蔵(経蔵)に伝来した聖教(しょうぎょう)、文書(もんじょ)類の一括で、良忍自筆本を含む。
- 法函(良忍自筆類15部、聖経類62部、文書類3通)
- 報函〈聖経類257部、文書類5通)
- 応函(聖経類93部、文書類112通)
- 石造三重塔 - 良忍の墓とされる。
交通
編集- 京都バス大原バス停より徒歩15分
参考文献
編集- 『週刊朝日百科』「日本の国宝 13」、1997
- 特別展図録『最澄と天台の国宝』、京都国立博物館・東京国立博物館、2005(「伝教大師度縁案並僧綱牒」が出品)
関連項目
編集外部リンク
編集- 京都市観光文化情報システム
- 伝教大師全集 国府牒 度牒 戒牒 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー