村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、元治元年4月24日[1]1864年5月29日) - 昭和15年(1940年6月5日)は、日本の衆議院議員憲政本党立憲国民党→純正国民党→立憲民政党)、ジャーナリスト

村松恒一郎

経歴

編集

伊予国宇和島出身。宇和島藩士村松喜久造の長男[2]1884年(明治17年)に同人社を卒業後、高野山大学林英学講師を務めた[3]。その後、関西日報、国会新聞、中央新聞、東京朝日新聞大阪朝日新聞などで記者を務めた[3]。やがて雑誌「大国民」を創刊し、また日刊大東通信社の社長を務めた[3]

1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は5回(第10回、第11回第13回第16回第17回にて当選[4])を数えた。その間の1919年大正8年)には普通選挙を主張し、立憲国民党内の党議に敗れて離党している[5]

また、1913年(大正2年)以後は東京市会議員や麻布区会議員も務めた[1]。社会事業調査会委員、立憲民政党総務となる[4]

その他に伊達侯爵家委員、山下合名会社顧問などを務めた。

親族

編集

脚注

編集
  1. ^ a b 故村松恒一郎位記追賜ノ件
  2. ^ a b 愛媛通信社 1934
  3. ^ a b c 『衆議院要覧』
  4. ^ a b 『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』衆議院・参議院、1962年、p.500頁。 
  5. ^ 『普選運動史及普選の心得』p.42

参考文献

編集