李道広
経歴
編集太常寺卿・隴西郡公李寛の子として生まれた。武周のとき、汴州刺史となった。突厥と契丹が河北に侵攻して陥落させたことから、河南の諸州から兵が徴募され、民情は大騒ぎとなった。道広は寛容さと厳格さを折衷させて、善政で知られ、汴州だけは民衆の逃散を引き起こさなかった。ほどなく道広は入朝して殿中監となった[2][4]。万歳通天元年(696年)9月、同鳳閣鸞台平章事(宰相)となった[5][6]。金城県侯に封じられた[2][4]。聖暦元年(698年)1月、宰相から罷免された[7][8]。のちに死去した。秦州都督の位を追贈された。諡は成といった[2][4]。
子女
編集脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。