李 軌(り き)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。

李軌
皇帝
王朝
在位期間 618年 - 619年
都城 武威
姓・諱 李軌
処則
生年 不詳
没年 安楽2年(619年
年号 安楽 : 618年 - 619年

生涯

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涼州姑臧県の人。姑臧の資産家の家に生まれ、郷里での名望により多くの人士と交際した。隋の大業年間、鷹揚府司兵に任ぜられた。大業13年(617年)、薛挙金城郡で乱を起こしたのを機に、李軌は同郷の曹珍関謹梁碩李贇安修仁らと語らって挙兵した。虎賁郎将謝統師武威郡丞の韋士政を捕らえて、武威郡を占領し、河西大涼王を自称した。張掖郡敦煌郡西平郡枹罕郡を平定して、河西地方を領有した。大業14年(618年)、唐の高祖李淵が薛挙を攻めた際に、李軌に親書を送り、李軌を従弟としている。同年11月、李軌は皇帝を称して国号を涼とし、安楽と元号を建て、唐に使節を派遣し「大涼皇帝臣軌」との表奉を行っている。

中国統一を着実に進めた唐の高祖は、安楽2年(619年)5月に安興貴を派遣して李軌に唐への帰順を説得するが、李軌はこの勧告を聞き入れなかった。そのため安興貴は弟である戸部尚書安修仁と結託し、胡兵を動かして政変を起こした。敗北を悟った李軌は、妻子と共に玉女台にのぼり、別れの杯を交わした後に捕虜となり、その後長安に送られて処刑された。

伝記資料

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  • 旧唐書』巻五十五 列伝第五「李軌伝」
  • 新唐書』巻八十六 列伝第十一「李軌伝」