李福
中国後漢末期から三国時代蜀漢の政治家。父は李権(豪族、伯豫)。益州梓潼郡涪県の人。
李 福(り ふく)は、中国の後漢末期、及び三国時代の蜀漢の政治家。字は孫徳。本貫は益州梓潼郡涪県。父は李権。子は李驤。
李福 | |
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蜀漢 平陽亭侯・前監軍・大将軍司馬 | |
出生 |
生年不詳 益州梓潼郡涪県 |
拼音 | Lǐ Fú |
字 | 孫徳 |
主君 | 劉備→劉禅 |
生涯
編集李氏は涪県の大姓(豪族)の一つ[1]。父の李権は臨邛県長を務めていたが[2]、初平2年(191年)に劉焉によって殺害された[3]。
劉備が益州を平定すると、李福はその下で書佐・西充国県長・成都県令を歴任する。
劉禅の時代に当たる建興年間[4]に巴西太守、さらに後に李豊の後任として江州都督・揚武将軍[5]に移る。入朝すると尚書僕射となり、平陽亭侯に封じられた。
建興12年(234年)[6]、五丈原の戦いの最中、丞相の諸葛亮が武功の地で危篤に陥る。李福は諸葛亮の下へ、国家の大計を諮問する使者として派遣された。諸葛亮は自身の後任として蔣琬を推し、またその後任には費禕を推した。李福がさらにその後任はと尋ねると、諸葛亮は答えなかった。李福は帰還すると、使者としての役目を果たしたとして称揚された。
延熙元年(238年)、蔣琬が漢中郡に出征すると、李福は前監軍・大将軍司馬として付き従ったが、まもなく死去した[7]。
楊戯の『季漢輔臣賛』、陳寿の『益部耆旧雑記』、常璩の『華陽国志』のいずれでも、「果鋭[8]」な人物として称えられている。
出典
編集- 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 楊戯伝 s:zh:三國志/卷45#季漢輔臣贊
脚注
編集- ^ 『華陽国志』漢中志 s:zh:華陽國志/卷二#梓潼郡
- ^ 『三国志』蜀書 劉焉伝注『益部耆旧雑記』 s:zh:三國志/卷31#劉焉
- ^ 司馬光『資治通鑑』漢紀52 s:zh:資治通鑑/卷060#孝獻皇帝乙初平二年(辛未,公元一九一年)
- ^ 『三国志』楊戯伝では建興元年(223年)、『華陽国志』先賢志では建興9年(231年)とする。
- ^ 『華陽国志』巴志・先賢志より。『三国志』楊戯伝では江州督・楊威将軍とする。
- ^ 『三国志』蜀書 諸葛亮伝 s:zh:三國志/卷35#諸葛亮
- ^ 『華陽国志』劉後主志 s:zh:華陽國志/卷七
- ^ 決断力があり、気性が鋭いこと。果鋭(かえい)とは? 意味や使い方 - コトバンク 2024-04-14閲覧。