李相熹
李 相熹(イ・サンヒ、1945年8月12日 - )は、大韓民国の政治家、軍人。第32代韓国軍合同参謀議長、第41代国防部長官などを歴任。最終階級は陸軍大将。
李相熹 이상희 | |
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生年月日 | 1945年8月12日(79歳) |
出生地 | 日本統治下朝鮮江原道原州郡 |
出身校 |
陸軍士官学校 ソウル大学校 |
所属政党 | (無所属) |
在任期間 | 2008年2月29日 - 2009年9月22日 |
大統領 | 李明博 |
李相熹 이상희 | |
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合同参謀議長在任時 | |
生誕 |
1945年8月12日 日本統治下朝鮮江原道原州郡 |
所属組織 | 大韓民国陸軍 |
軍歴 | 1970 - 2006 |
最終階級 | 陸軍大将 |
除隊後 | 第41代国防部長官 |
李相熹 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이상희 |
漢字: | 李相憙 |
発音: | イ・サンヒ |
英語表記: | Lee Sang-hee |
経歴
編集1945年8月12日に日本統治下の江原道原州郡で生まれた[1]。本貫は全義李氏[2]。京畿高等学校を卒業し、陸軍士官学校に入学した[3]。1970年に陸軍士官学校(26期)を卒業し[1]、少尉に任官された。第30機械化歩兵師団師団長、国防部政策企画局長[1]、第5軍団軍団長[1]などを歴任。2001年に中将に昇進し、合同参謀本部戦力企画局長に就任した[4]。合同参謀本部作戦本部長[1]を経て、2003年には大将に昇進し、第3野戦軍司令官に就任した[5]。2005年4月7日には合同参謀議長に任命された[1]。2006年11月には任期を4か月残して退任し、軍を退役した[6]。この人事は盧武鉉大統領が推進する、米軍から戦時作戦統制権を返還させる時期を引き伸ばすべきと主張したからとされる。
2008年に李明博が大統領に当選すると国防部長官に指名され、同年2月29日に就任した[7]。同年7月に、偽装脱北者の元正花がスパイ活動をしていたことが明らかになると、軍内にも50人のスパイが浸透していることを明らかにし[8]、深い憂慮を示した。同年11月には従来は良好であった国防部と国会の国防委員会との連絡を絶つなど、国会を軽視する姿勢が批判を呼んだ[9]。2009年に北朝鮮がミサイルを発射し、南北間の緊張が高まる中黄海北方限界線の韓国艦艇を攻撃した場合、報復攻撃を実施することを表明した[10]。同年8月には張秀萬国防次官が独断で国防予算を減額するように大統領府に要請したことに対して、「下克上」と非難するなど険悪な関係になった。8月27日には韓昇洙総理から非難される事態となり、同年9月3日に更迭が発表された[11]。
辞職後は、韓国戦略問題研究所所長に就任し、多くの退役将軍が国会に進出して党利党略に振り回される風潮を非難している[12]。
脚注
編集- ^ a b c d e f 국무조정실장-국정홍보처장-軍수뇌부 인사 東亜日報 2005年3月22日
- ^ “스카이데일리, 팔방미인 이문세·이경실, 왕건 신임 ‘뱃사공 후예’”. www2.skyedaily.com (2017年5月24日). 2022年11月14日閲覧。
- ^ 신임 군 수뇌부 내정자 프로필 東亜日報 2008年3月18日
- ^ 陸軍の梁承淑大領、初の女性将軍に任命 東亜日報 2001年11月9日
- ^ 합참의장 김종환-육군총장 남재준-연합사부사령관 신일순 東亜日報 2003年4月1日
- ^ 合参議長と陸参総長ら大将級8人を任命 軍人事でもコードの影 東亜日報 2006年11月16日
- ^ “강한 전사, 강한 군대 기풍 조성할 것” 東亜日報 2008年3月1日
- ^ 「軍潜入のスパイ容疑者は約50人」 韓国軍筋が明かす 東亜日報 2008年8月30日
- ^ 국방위 ‘국방부 군기잡기’ 東亜日報 2008年11月22日
- ^ 北の先制攻撃には「半自動的な報復攻撃で」、韓国軍が最前線指揮官に指示 東亜日報 2009年6月2日
- ^ 뉴스테이션/동아논평국방부, 국민신뢰 회복해야 東亜日報 2009年9月4日
- ^ 오늘과 내일/방형남장군출신 의원들의 새로운 戰線 東亜日報 2012年6月9日
軍職 | ||
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先代 金鍾煥 |
韓国軍合同参謀議長 2005年4月7日 - 2006年11月17日 |
次代 金寛鎮 |
公職 | ||
先代 金章洙 |
国防部長官 2008年2月29日 - 2009年9月22日 |
次代 金泰栄 |