李濬
生涯
編集父の李旺の燕山左護衛副千戸の官を嗣いだ。建文元年(1399年)、靖難の変が起こると、燕王朱棣の起兵に従って、九門を奪取した。薊州・永平で壮勇数千人を招募し、朱棣に従って耿炳文の軍を真定で破り、大寧を奪取した。鄭村壩の戦いでは、李濬は精鋭の騎兵を率いて敵陣に突入し、味方が囃し立ててこれに乗じると、大勝を収めた。山東で転戦し、先鋒をつとめた。建文4年(1402年)、小河にいたって、にわかに建文帝側の軍と遭遇した。李濬は決死の士を率いて先に河橋を破壊したので、敵軍は争うことができなかった。朱棣の本隊が到着すると、敵軍を撃破した。都指揮使に累進し、襄城伯に封じられ、1000石の禄を賜り、指揮同知の位を世襲する権利を得た[1]。
永楽元年(1403年)、江西に駐屯した。永新県で反乱が起こると、李濬がその首領を捕らえて殺した。ほどなく南京に召還された。
永楽3年11月戊戌(1405年11月27日)、死去した。
子の李隆が後を嗣いだ。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻146 列伝第34