李彪の子として生まれた。博学で才幹があり、十数歳で文章を作ることができた。李彪はこれを珍しく思って、「子(崔鴻)と鴻道(李志)は洛陽で二鴻とされている」と崔鴻にいった。崔鴻は李志と親しく交友し往来するようになった。李志は後に符璽郎中・徐州平東府司馬となった。軍功により後軍将軍・中散大夫・輔国将軍・永寧寺典作副将を歴任した。正光2年(521年)に桓叔興が離反して南荊州が荒廃すると、李志は領軍の元叉に才能を見込まれて南荊州刺史に抜擢され、征虜将軍の号を加えられた。建義元年(528年)、北魏から離反して南朝梁に入った[1]。李志の晩年は知られていない。
- ^ 『梁書』武帝紀下 大通二年夏四月辛丑の条や『南史』梁武帝紀下 大通二年夏四月辛丑の条に、北魏の南荊州刺史李志が梁に降ったことが見える。『魏書』孝荘帝紀建義元年六月辛卯の条では、李志は城南に拠って叛いたとされている。『梁書』簡文帝紀の末尾では、李志は安昌城に拠って降ったとされる。
- 『魏書』巻62 列伝第50
- 『北史』巻40 列伝第28